「キャプテンの日記」カテゴリーアーカイブ

笑顔の力

東日本大震災で被災されたお母さんから話を聞きました。ご自宅は2階建てで、1階部分が店舗、2階部分が住居でした。

震災当時、私は自宅にいました。2階の住居は大丈夫だったのですが、1階の酒屋は天井まで津波に浸かってしまいました。店内は一面泥だらけで商品も全て流されてしまい、津波が引いた後は見る影もありませんでした。当然、営業再開も厳しい状況だったので、主人といろいろ相談した末に、閉店する方向性で話が落ち着きました。

しかし、主人にとってこの店は単なる仕事ではなく、趣味であり、楽しみでもあり、生きがいだったんです。だから、閉店を決めてから主人はすっかり元気を無くしちゃいました。何に対してもヤル気が出なくなり、笑顔も少なくなり、やがて鬱になってしまったんです。更に、あまりにも動かなくなったので、体もどんどん太っていきました。

私は心配になったため、主人には専門の人からのカウンセリングを受けてもらいました。でも、主人の場合は鬱の原因が精神的なものではなく、具体的なもの(お店の閉店)でした。例えカウンセリングを受けたところで、原因が解決に向かうわけでもなかったので、鬱の症状は改善しませんでした。

一方で、市による街の再開発計画もなかなか提示されませんでした。お店の場所は河川の側だったため、場合によっては「再開発工事に影響する場合、強制退去になる可能性もあります」と聞いていました。そのため、この場所(店舗兼自宅)は取り壊されるのか?引越し先はどうするか?仕事はどうするか?悩み事は絶えませんでした。

結局「強制退去の話は無くなりました」と明確になったのは、悩み始めてから1年が過ぎた頃でした。引っ越す必要はないと分かってホッとした反面、あまりにも悩み過ぎたせいか、私自身も精神的に疲れてしまい、今更「希望を持って頑張ろう」という気持ちにはなれませんでした。

そんな時、心配して様子を見に来てくれたボランティアリーダーの方と、このお店の事情を共有しました。すると「私たちで良ければ、できる限りお手伝いしますよ」という話が出て、既に諦めていた私は驚きました。そして、あるボランティアさんからかけられた言葉が印象的でした。

「俺、やってやりますよ!」

その言葉を聞いて、私も心が動きました。店を再開できるかは分かりませんでしたが、「できる限りやってみたい」という気持ちが芽生えたんです。

そこからは、ボランティアさんが継続的に支援で来てくれました。顔も名前も知らない私たちのために、朝早くから店に来て、汗を流しながら作業しても嫌な顔一つせず、作業中に顔が汚れちゃっても、夕方になると笑顔を残して帰って行きました。店内の隅々まで泥汚れを取ったり、天上の柱も一本一本磨いたり、汚れがこびり付いた箇所を洗浄したり…など。1日や2日で終わるはずは無く、1週間、1ヶ月と継続してくれました。おそらく、業者でなくてもできることは、一通りやってくれたと思います。

そんなボランティアさんの明るい笑顔に毎日のように触れながら、主人は徐々に笑顔を見せるようになってきました。また、ボランティアさんが必死に尽くしてくれる姿に刺激されて、片付けも徐々に手伝うようになっていくのを見ながら、主人の鬱の症状が徐々に改善していくのが分かりました。

店内がどんどんきれいになっていくのを見ながら「これなら、頑張ればお店を再開できるかもしれない」と思った私は、ある日、主人に相談しました。すると、主人も希望を持ち始めて、見違えるように元気を取り戻していきました。更に、体もどんどん動かすようになったことで、太っていた体も徐々に引き締まり、震災前の健康そうな体つきに戻りました。主人の劇的な体型の変化は、ボランティアさんからも驚かれるほどでした。

数ヵ月後、お店は無事に営業を再開しました。震災前と比べると、商品の数は少なくなり、客足も減りました。でも、お店を営業していること自体が、主人にとっての幸せなんです。そんな主人を見ながら、私自身も嬉しくなりました。振り返ってみれば、ボランティアさんの “笑顔” に触れたことがキッカケで、主人は鬱が治りましたし、私自身も救われました。

震災直後は、お店の営業再開なんて叶わぬ夢、私たち夫婦にとっては大き過ぎる夢でした。でもボランティアさんが力を貸してくれたからこそ、叶えることができました。そのため今は、“お店を続けること”“主人の笑顔が続くこと” という、新しい夢が見つかりました。今度目指すのは小さい夢ですが、他人の力は借りずに、私たち夫婦の力だけで叶えたいと思っています。

5分あれば家族になれる

ボランティア団体のリーダーから聞いた話です。最初は、一個人のボランティアとして被災地を訪れましたが、その後、ボランティア団体のリーダーになって被災地へ大きく貢献された人です。

2011年4月上旬、個人ボランティアとして東日本大震災の被災地を訪れました。私自身がボランティア初心者ということもあり、最初は分からないことだらけで不安も多い中でしたが、周囲で活動する人たちを見よう見まねでボランティアを始めました。すると、活動を始めて間もなく、私を含む多くのボランティアは「待ち時間が長い」という共通の悩みを抱えるようになりました。

当時、ボランティアの参加者は、団体よりも個人の方が圧倒的に多かったです。ところが個人参加者の場合、毎朝8時から始まる受付の大行列に並ばなければなりません。受付け後は注意事項の説明、作業現場の割り振り、移動して作業現場へ到着する頃には11時過ぎることが多かったです。更に、依頼者さんに事情を伺って作業を開始する頃には11時半になるため、20~30分だけ作業したら1時間の昼休みに入ります。「気を取り直して、午後は頑張ろう」と思っても、3時を過ぎると作業終了になります。参加者にとっては、朝の集合から夕方の解散まで8時間の時間を割いても、活動するのは実質2~3時間という計算になります。

活動後は、ボランティア同士の「午前は何もできませんでしたね」「作業時間より待ち時間の方が長かったですね」「待ち時間が長くて逆に疲れました」という、ため息交じりの会話を耳にすることも多かったです。

そこで、待ち時間の短縮による作業の効率化を狙い、個人ボランティアを集めて新しいボランティア団体を立ち上げる流れになりました。すると、その団体のリーダーとして、まだ数日の活動経験しかない私が、ふとしたキッカケから任命されてしましました。その瞬間、私はボランティアを “する側” から “させる側” の立場に変わりました。

ボランティア団体を立ち上げて新しい流れを作ったことで、「待ち時間が長い」という課題は解決できました。しかし、参加者の抱える不安やため息は、思ったほど減りませんでした。ボランティア参加者に活動後の感想を聞くと「素人の自分が貢献できるか不安だった」「私が現地の邪魔になっていないか心配だった」「被災者にどう接したらいいか分からず、声をかけれなかった」「自分の予想と違う作業で、不完全燃焼だった」など、反省点や後ろ向きな声ばかりを耳にしました。

そこで、参加者の声を聞きつつ私自身のことを振り返ってみると、あることに気付きました。参加者が抱く気持ちは、被災地に来た当初に私が抱いていた気持ちと、ほとんど同じ内容だと分かったんです。それならば、当時の私が周囲の人にしてほしかったことを、逆にしてあげようと思いました。

その翌日から、私の動き方が変わりました。

私は、ボランティアの人たちが宿泊しているテント村全体を見渡して、不安そうな人や最近来たばかりの人、困っていそうな人を見つけては、片っ端から声をかけていきました。すると最初は 「えっ?この人は誰?」 という顔をされます。しかし、二言三言会話をすれば、相手が抱えている心配事がだいたい分かるので、アドバイスして不安を解いてあげることで、すぐ打ち解けた関係になれました。

そして、被災地の現状やボランティアの活動内容、必要な持ち物、生活のノウハウなど、必要な情報を一通り教えてあげます。すると、同じ目的を持つ仲間だと分かってもらえるので、どんな人とでもすぐに友達になれました。そんな私の行動は “ボランティアナンパだね!” と、言われるようになりました。

その一方、被災した人たちからの作業依頼は非常に多かったです。被災者からの依頼内容(家屋の泥出し、家財の撤去など)が書かれた依頼書のことを “ニーズ表” と呼んでいます。1件のニーズ表に対しては、約20人が1日がかりで作業して、やっと終わるような作業量です。忙しかった時期は、未着手のニーズ表だけ数えても5000件以上たまっていたため、まさに “猫の手も借りたい” 状況でした。

2~3ヵ月が2~3日位に感じてしまうほど、毎日が “あっ” という間に過ぎる日々でした。気付くと、一日に500人や600人の参加者をコーディネイトする大きなボランティア団体になっていました。最初は皆、顔も名前も知らない人同士ですが、共通の目的のもとに集った人たちなので、初対面でも不思議なくらい、すぐに意気投合できました。

共通の目的さえあれば、最初は赤の他人だとしても、1分あれば友達になれて、5分あれば家族のような関係になれました。そこには、人種や国境・民族・言語・宗教の壁を、はるかに越えた文化がありました。ボランティア活動を続けるほど、家族がどんどん増えていくような感覚でした。

振り返ってみれば、2011年はあっという間の1年でした。2011年の “今年の漢字” を見てみると「災」「震」「波」が上位に入る中、1位に選ばれたのは「絆」でした。もし、私が被災地へ行かなかったとしたら、正直「絆なんてキレイごとだろ」と言っていたと思います。しかし、被災地でボランティアを経験した今なら、この言葉が大差をつけて1位に選ばれたのはすごく納得できます。今まで、万単位の作業ニーズに答えてきましたが、無事にやり遂げられたのは知識や技術ではなく、“絆” があったからだと実感しているからです。

取り戻した信仰

浄土真宗の信仰を持つ人から聞いた話です。東日本大震災で被災した際、一度は信仰生活を送れなくなった経験をお持ちでした。

2011年3月11日の午後、いつもと変わらぬ日常を過ごす中で突然、東日本大震災が発生しました。その時私は、家族と一緒に沿岸地域の自宅にいました。近隣住民が避難するのを横目に見ながら、私は母が高齢で体が不自由だったので、母を車に乗せて一緒に避難しようと、必要な荷物を準備していました。

すると突然、何の前触れも無く突然、津波が家の敷地内に流れ込んで来ました。車へ荷物を積んでいた私は、津波の力で荷物と共に家の中へ押し戻されてしまい、母と一緒に自宅の中で被災を経験しました。津波が家の中一面に広がったかと思うと、あっという間に一面がプールの状態になりました。私と母は、押し寄せる津波とガレキによって玄関などが塞がれ、自宅内に閉じ込められてしまい、津波が引くまでは外へも出れなくなりました。

水の勢いは一向に収まらず、家の中の水位は床上1mを越えても上昇が続き、1.5mを越えると足が地面に付かなくなりました。母は泳ぐことができなかったので、私が母を抱きかかえながら立ち泳ぎしました。水位が2mを越えると、地面よりも天上の方が近くなってきました。自宅は平屋の一階建てだったため、高所へ逃げることもできませんでした。私は仏様の前に必死に祈りましたが、水位の上昇は続きました。

やがて私と母は、上昇する水面と天井の間で挟まれた状態になり、手を伸ばせば天井に届きました。私は「もう、ダメかもしれない」と思いつつも、仏様へ「助けてください」と必死に祈り続けました。ついに、水位は天井の一番高い場所とほぼ同じ高さまで来ました。空気の層がほとんど無くなり、顔を天井に押し付けなければ呼吸もできなくなりました。仏様へ祈り続けながらも、私は心の中で家族に対する別れを告げて、覚悟を決めました。

すると、水位の上昇が “ピタッ” と止まったような気がしました。しばらく経つと、天上に顔を押し付けなくても呼吸できるようになってきたため、水位が若干下がったのが分かり「何とか命拾いした…」と思いました。もし、水位があと5cm上昇していたとしたら、家の天井と津波の間にあった空気の層が無くなり、私自身も間違いなくあの世行きでした。

一方、家の隙間から外の様子を見ると大粒の雪が降っていました。時期としては3月でしたが、気温や水温は真冬並みに低く、体力がどんどん奪われました。手や足の指先の感覚が徐々になくなっていく中、私は何とか耐えていましたが、私が抱きかかえた母の方は、徐々に衰弱していくのが分かりました。やがて、母は自分の死期を悟ったように「今までありがとね…」と感謝の言葉をかけてきたので、私は必死に祈りながら、母に対しても声をかけ続けました。しかし、母は「あとは頼んだよ…あとは頼んだよ…」と何度も言いながら、私の腕の中で息を引き取りました。

一晩が過ぎて翌朝、ようやく水位が腰位まで下がったので、地に足を付いて歩き回れるようになりました。この1日で、私は母を含めた家族3人を亡くしました。あまりにも突然過ぎる出来事だったため、最初は全く実感が持てませんでした。その後、遠方に住む親戚へ連絡したり、パンク寸前だった火葬場で何とか受け入れてもらったり、家族の遺品を整理したり… 事が進む中で、家族を亡くした実感が徐々に湧いてきました。しかし同時に、やり場のない恨みや悔しさが溢れてきました。その思いはやがて「大切な家族をどうして3人も奪ったんですか」と、仏様にも向きました。それまで毎日唱えていたお経も、震災後は一切唱えられなくなりました。長年続けた信仰生活でしたが、この時ばかりは、やめようかと考えました。

その一方で復旧作業は、被災した自宅の泥出しや片付け、リフォーム、引越しなどで町中が毎日バタバタしていました。その反動もあってか、自身の身の回りが片付くと気持ちも落ち着いてしまい、家から出てこなくなる人が多かったです。その気持ちは、私もよく分かります。しかし、公園の泥出しや集会所の片付け、共同墓地の掃除など、本来は町内の住民が協力してやるべきことに対しては、声を掛けても人が集まらず、片付けが進みませんでした。そのため、町内の子供たちが「外で遊びたい」と言っても、公園はガレキが残ったままで遊べず、かわいそうな状態が続きました。また、亡くなった家族のお葬式をしようとしても、お墓が泥だらけで汚かったので、供養も満足にできませんでした。

そんな状況の中、積極的に手伝ってくれたのがボランティアさんでした。特に、UPeaceさんのような宗教ボランティアの方たちは、一般のボランティアさんが来なくなった後も、この町の支援をずっと続けてくれて本当に助かりました。そんなある日、いつものようにUPeaceさんが活動している姿を見ながら、まるで、その背後にいる仏様から助けてもらっているような、そんな感じがしたんです。

震災後、私は最初 “仏様は私の普段の行いを見て、罰を与えようと家族を奪った” と思っていました。でも、神様・仏様のことを信じているUPeaceさんのような宗教ボランティアの方たちから何度も助けられることを通して、“仏様は、私のことをずっと助けようとしていた” のかもしれないと、少しづつ思うようになってきたんです。時間がかかりましたが、ようやくまた、お経を唱えることができるようになりました。仏様に対する私の恨みが、解けてきたからだと思います。

震災から5年以上が過ぎても、あの日の出来事は、まるで昨日のことのように思い出されます。おそらく、一生忘れることは無いと思います。でも、それを根に持ちながら生活しても、家族が戻ってくるわけではありません。なので、私自身が世のため、人のために真っ当な人生を送ることで、少しでも供養につながればと思っています。

私の人生の分岐点

ボランティア団体のリーダーから聞いた、ご自身が災害支援に携わることになったキッカケの話です。

東日本大震災の発災当時、私は東京に住んでいました。東北地方には行ったことも無く、知り合いもいなかったので、私にとっては縁のない地域でした。そのため最初は、災害支援のことで現地と関わる気は全くありませんでした。

しかし、震災関連のニュースや新聞を見ながら、少しづつ、被災地のことが気になり始めて “自分は何もしなくていいのだろうか?” という声が、耳元でささやくようになりました。やがて、震災のことが頭の片隅から離れなくなり、休日でも気持ちが休まらなくなってきて、「ここまで気になったら、一度、現地へ行かなきゃだめだな」と思うようになりました。

そこである日、「自分、被災地へ行ってくるから!」 と家族に伝えて、友人や仕事仲間、営業先の顧客など、話さなくてもいいような人にまで同じ話をしました。すると、周りの人たちは嫌な顔もせず応援してくれて、支援物資を集めてくれる人もいました。当時の私は、いろんな人に話すことを通して、自分自身の中で被災地へ行く気持ちを固めていたように思います。

しかし、被災地へ行く準備が進めば進むほど、不安が大きくなりました。当時は被災直後で、震度5や6の余震で津波警報が鳴ることが何度もあり、原発事故の影響で危険だと言う人も周りにいました。現地で生活環境も十分には分からなかったため 「…今回は、やっぱりやめておこう」 と躊躇しました。

そんな時、一旦落ち着いて自分の周囲を見渡してみました。そこにあったのは、被災地へ行く準備万全の車、知人に頼んで集めてもらった支援物資、集まった募金、私を応援してくれる家族や親友からのメッセージなどでした。これらを見ながら 「もう、後戻りするのはやめよう」 と、私自身の中で何かが吹っ切れた気がしました。

出発当日になりました。少なからず不安もありましたが、それ以上に不思議な感覚がありました。言葉ではうまく表現できませんが、「自分の意志で行くことを決めて出発した」 という感覚ではなく、「自分とは違う誰かから、目に見えない力で背中を “ポン” と押されるように出発した」 という感覚でした。

車で現地へ向かう道中、移動時間は普段の倍くらいかかりました。というのも、高速道路が震災の影響で、時速50km制限や70km制限の場所が多く、現地に着くまで10時間以上かかりました。最初は音楽を聞いてましたが、さすがに飽きてしまい、途中からはいろんなことを考えました。「自分は縁もゆかりも無い地域のために、なぜ、こんなにも頑張っているのだろう?」と、今更ながら考えました。でも、私の中からは納得のいく理由が出ませんでした。結局、「自分のことを呼んでいる誰かがいて、その誰かの期待に応えようとして頑張っている」と考えるのが、一番しっくりきました。こういう感覚を “第六感” とか、宗教を持つ人にとっては “神の導き” とか言うのだろうと思いました。

震災から1ヶ月も経たない4月初め、私は被災地に到着して災害ボランティアをスタートしました。その後も様々な紆余曲折がありましたが、今ではもう、私はここ (東北) の住民になっています。

震災前、私が思い描いていた将来像の中では “東北地方に住む” なんて夢にも思いませんでした。でも結果的には、ここへ来たことで人生が良い方向へガラッと変わりました。今では、ここへ来て本当に良かったと思っています。

振り返ってみれば、震災当時に “被災地へ行こう” という選択をしたことが、自分の人生にとって一番の大きな分岐点になりました。あの時のような、目に見えない不思議な力を感じた時は、その力に委ねて行動してみることも大切だと、今は思っています。

私が生き残った意味

東日本大震災で被災した人から聞いた話です。震災当時は60歳で、仕事を定年退職されたばかりの方でした。

あの日、私は自宅で被災しました。地震が収まった後、私はすぐに保育園にいた孫を迎えに行きました。自宅へ戻り、残っている家族を連れて避難所へ行こうと荷物を準備していた時、津波に襲われました。津波の圧倒的な力に成すすべなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で必死にもがきました。他の部屋にいる妻や孫が気がかりでしたが、助けに行く余裕はありませんでした。

何時間が経過したか分かりませんが、津波の勢いは落ち着いて、静かなプールのような状態になったのが分かると、私はすぐに家族を探しました。その時はもう夜中で視界は悪かったですが、流されたであろう場所を探し回っていると、息を引き取った妻を見つけました。

しかし、引き上げようとすると上手くいきません。妻の左手が何かに引っ掛かっているようでした。妻の左手の先をよく見てみると、左手で何かを必死に掴んでいるように見えました。そこで、妻の左手の先にあったがれきを片付けてみると、そこには息を引き取った孫の姿がありました。妻の左手は、孫の手をしっかり掴んでいたんですよ。その光景を見ながら「おまえは、命を落とした後もずっと孫を守り続けてくれたんだな…」と、込みあげてくる想いがありました。でも、不思議と涙は出ませんでした。もう、あまりにも悲し過ぎたからか、不思議と涙は全く出なかったです。人間は、本当に悲しくなると涙も出なくなるんだな…と、思いました。

その後、孫が通っていた保育園の園児たちは「先生に連れられて避難したおかげで、皆助かりました」と聞きました。それを聞いた私は「私が孫を保育園へ迎えに行かなければ、孫は死なずに済んだんだ」「どうして迎えに行ってしまったんだ?」「孫を殺したのは私だ」「私なんかが、なぜ生き残ったんだ?」と何千回、何万回悔やんだか分かりません。

震災直後は、何に対してもやる気が出ませんでした。出てくる想いは後悔しかなかったです。しかし、1~2ヶ月くらい経った頃、転機がありました。

ある日、被災した街中で、ある光景を目にしました。私が車で街中を走りながら赤信号で止まった時、ふと道路脇の歩道を見ました。すると、がれきが散乱する中、足元に気をつけながら街中を歩いている母親と子供の姿が目に入りました。お母さんに手を引かれる子供が元気そうに、でもちょっと不安そうな表情で歩いていました。その光景を見た時、手を引かれて歩く子の姿が、まるで自分の孫のように見えたんです。もし、自分の孫が生きていたとしたら、この子のように、不安でいっぱいな日々を送っていただろうな…と思ったんです。その時「こういう子供のために、何かしたいな…」という気持ちが芽生えたんです。

それ以降、外出する時は自然と子供に気を配るようになりました。すると皆、何かしらの不安を抱えていそうで、どこか辛そうな表情をしているように見えました。そして、私は徐々に「孫にしてあげれなかったことを、こういう子供たちにしてあげれないものか?」「こんな自分でも、助けになれるんじゃないか?」と、少しづつ前向きなことも考えるようになりました。

この頃は、まだ仮設住宅ができる前でした。避難所では人が溢れて大変なのに、住む場所自体が探しても見つからず、困っている人が多かった時期です。そこで、私はいろいろと考え抜いた末に、当時自分が所有していた15件ほどの貸家をリフォームして、格安で貸してあげることにしました。

しかし、一口にリフォームと言っても簡単ではありませんでした。貸家も全て屋根の高さまで津波で被災していたため、被害が小さかった家でも1ヶ月程、全ての家のリフォームが終わるまでは1年近くかかりましたが、何とか形になりました。件数は限られていたため、小さな子供をもつ母親や生活に困っていそうな家族を優先的に入れました。

入居の際に挨拶に行くと、いろんな家庭がいました。入居する家が早く見つかったことに感動して、家族皆が泣きながら挨拶した家庭。入居できたことがあまりにも嬉しくて、手が痛くなるくらい固い握手を交わしてきた家庭。入居できた安心感で緊張の糸がゆるんだのか、号泣する家庭もいました。いずれにしても、皆さん喜んでくれました。その姿を見ながら「私が生き残った意味は、これかもしれない」と思ったんです。

仕事も定年を迎えて、ちょうど自由な時間が増えたところです。私は元々、定年後は自分の好きに生きようと思っていました。でも今は、もう少し世のため人のために生きて、天国にいる妻や孫に見られても、恥ずかしくない人生にしたいです。

夫婦の約束

東日本大震災の被災地域で、焼きそば屋さんの店長さんから話を聞きました。震災当時は、石巻市内の沿岸地域で中華料理店(店舗兼自宅)を、夫婦二人で切り盛りしていました。

震災の時は、お店の営業時間中でした。お客さんを避難させるまでは良かったのですが、私自身が逃げようとした時、津波にのまれちゃったんですよ。“あっ”という間に体を持って行かれました。この町を襲った津波は7mだったようです。何とか水面に顔を出して、流れてきた柱や家の屋根につかまりました。さすがにあの時は『俺はもう死ぬんだな…』と思いましたね。どのくらい流されたか分かりませんが、何とか助かったんです。

急いで高台の上へ移動して『何とか助かったか…』と思いましたが、その時既に、妻の姿はどこにも見えませんでした。辺りを探しても見当たらず、私は海へ戻って妻を探そうと思いましたが、お腹が痛み出して苦しくなりました(当時は、津波の水を飲んでお腹を痛めただけだと思っていましたが、後で病院へ行ったら肋骨が三本折れていました)。更に、工場から漏れた油が何かに引火したのか、津波の上が一面火の海になって近付けなくなり、結局妻を探し回ることができませんでした。

津波が引いた後、自分の店を見に行きました。すると、津波でほとんどの物が流された上に、火災になって店全体が真っ黒こげになり、店そのものが原形を留めていませんでした。結局、この場所で津波にのまれる直前に聞いた「お父さん、津波が来たど〜」が、妻の最後の声でした。妻は、未だに見つかっていません。

震災から10日後位に店を片付けていた時、がれきの中からヘラ(焼きそばを作る時に使う調理器具)が二枚出てきたんです。他の調理器具は、火災のせいで全て真っ黒焦げになっていたにも関わらず、不思議と、この二枚のヘラだけは全く焦げておらず、きれいな状態で見つかりました。しかも、そのヘラをよく見たら、私のではなく、妻の愛用のヘラだったんです。そこに気付いた時は、まるで妻から励まされているような感じがしました。そのヘラを見た娘からは「お母さんが、また焼きそばを作れって言ってるんじゃない?」と言われました。そこで、震災前に妻と交わしていた、ある “約束” を思い出したんです。

「これからの二人の人生で、どんな困難があっても、辛いこと、嫌なことがあっても、焼きそば屋さんだけは絶対に続けよう。おいしい焼きそばを通して、日本中の人たちを笑顔にしようね!」

過去を振り返りながら、下を向いてるヒマは無いと思いました。震災後、この町の人たちは皆、顔から笑顔が消えていました。おいしい焼きそばを食べて、もう一度笑顔を取り戻してもらいたかったです。

そんな時に「B-1グランプリに出てみないか?」というお誘いがありました。以前から妻とも「参加してみたいね~」と話してたのを思い出して『よ〜し、やってやるか!』と、少しづつですが、前に進む力が湧いてきました。

2011年11月に開催されたB-1グランプリに出店しました。全国から集まって来るたくさんの来場者たちが、「宮城県から来た」というだけですごく応援してくれて、私自身も驚きました。   (第6回 B-1グランプリは2日間で50万人以上が来場し、60団体以上が参加する中で、店長の焼きそば屋は6位に入賞した。)

この頃私は、自分の中でも “一つのけじめ” をつけなきゃならないと思っていました。そこで、妻はまだ行方不明でしたが、B-1グランプリの翌月には葬儀をあげたんです。普通に考えたら、行方不明者の葬儀をするって変じゃないですか、本当に死んだのか分からないわけですから。でも、今回の震災は被害が大き過ぎたから、自衛隊の捜索活動が全て終了した後も行方不明者数は多いままで、私の近所でも行方不明者の葬儀をする人は多かったです。(2020年1月時点で、宮城県内の行方不明者は1200人以上)

その後、資金を貯めてキッチンカーを購入して改造し、2012年7月に焼きそば屋を再開しました。今度は移動販売車にしたから、地元に限らず、どこへでも出張販売できるようになりましたよ。

石巻焼きそばは、この辺り(石巻市近隣)だとみんな知ってるけど、県外は知らない人が多いじゃないですか。特に、店を再開した当初は、関東や関西のイベントやお祭り会場へ行くと「“石巻焼きそば” って…何ですか?」という反応が多かったですよ。でも、“珍しい名前” と “被災地から来た” というのが相まってか、関心を持ってくれる人がすごく多くて、嬉しかったですね。

元気付けようと思って現地へ行ったつもりが、逆に元気付けられて帰って来るような日もありました。でも、それだと妻との約束は守れないので、これからは笑顔をもらう以上に、届ける側になりたいと思っています。

震災直後の大変だった時期に応援してくれた全国の皆さんには本当に感謝してるので、“焼きそば” を通して少しでも恩返しできればと思っています。私にとっては、まだまだこれからです。

守ってみせますよ、妻と交わした約束だからね。

校長先生の一番の仕事

2016年3月11日、東日本大震災によって被災した小学校で、校長先生から震災当時の話を伺いました。震災以降、宮城県は3月11日を「みやぎ鎮魂の日」と定めたため、石巻市内では小学校が休みとなっています。そのため、この日は平日でしたが、校内は静かに時間が流れていました。

〔2016年3月11日 石巻市内の沿岸地域〕

震災当時、私は今とは別の小学校の校長でした。あの日は、すごい揺れでした。地震と聞くと、普通は数秒程度の揺れをイメージしますが、あの時は3分位揺れが続きました。校舎は沿岸地域に位置していたため被災しましたが、校舎内の児童たちは全員避難できました。

でも実は、助けられなかった児童が1名いたんです。校外にいた子でした。津波の引き波で流されていった家の2階から、あの子が助けを求める声を聞いたという人もいましたが、その後、助かりませんでした。それ以来、私は校長としてあの子を助けられなかったことが、ずっと悔やまれていてですね。今日に至るまで、あの子のことを想わなかった日は1日もありませんでした。震災前は、朝に私が校舎の前で児童たちを迎えていた時は「おはようございます!」と、人一倍元気な声で挨拶をする子でした。

震災2年後、あの子宛てに手紙を書いて、天国に向かって読み上げました。すると、手紙を読んでいる最中、あの子から逆に励まされているような、不思議な感覚になりました。そして、“悔やみ続けるだけではいけない。震災を乗り越えた児童たちのためにも、私自身がもっと頑張らなきゃいけない” と思えたんです。

私は震災後、移動になってこの小学校へ来たのですが、ここへ赴任して驚いたことがあります。ここも被災した小学校だったということです。震災当時は校舎自体も床上1m位まで浸水し、多くの児童が犠牲になった小学校でした。そのことを知った時、不思議な縁を感じました。まるで、やり直すチャンスをもらったような …そんな気がしたんです。

ここでも、児童たちが負っている心の傷は様々でした。例えば、遠足で海が見える場所へ行く日は学校に登校できなかったり。余震があると、次の日から学校を休んだり。普段から体調不良で休む日が多かったり。登校できても授業には出れず保健室で休みがちになったり。毎月11日になると辛い出来事を思い出してしまう記念日反応にみまわれたり…。震災から5年が経過して、ある程度は落ち着いてきましたが、ゼロにはなっていません。

震災当時に1年生だった児童たちも、今月で卒業になります。来月からはもう、この小学校で震災を直接体験した児童がいなくなります。そういった意味では、学校としては一つの節目を迎える時期だと感じています。震災のことを言葉や映像でしか知らない世代に移り変わっていく中で、震災というものを次の世代へ如何に伝えたらよいか…。今後の大きなテーマだと思っています。

「校長先生の仕事って何ですか?」

児童たちや郊外の人から、私は時々こんな質問をされます。震災以降は、この質問に答える時、必ず入れるフレーズがあります。

「一番の仕事は、復興です。」

取り組んでいること一つ一つが、最終的には、そこへ繋がるように感じています。

心霊写真を撮りたい私

東日本大震災の被災地でボランティア活動をしていた時、近所に住むお母さんから聞いた話です。このお母さんは、震災で家族を一人亡くしていました。

震災後の半年間は、近所のお母さんたちと井戸端会議をすると、幽霊の話題ばかりでした。

「あそこのスーパーの店内に、カートを引いてるおばあさんの霊がいたらしいわよ…」

「あっちのお店は、あまりにも頻繁に出るから、業者の人も怖がっちゃって、店内の改装工事が進まなくなったったみたいよ…確かに最近、工事の音がしないわね…」

「あの国道は、よく出るって聞くでしょ。その出方なんだけど、道路の真ん中に立ってることが多いらしくて、慣れない人が目撃すると本物の人間と勘違いしちゃって、警察へ電話する人が多いみたいよ…まあ、無理もないわよね…」

「あっちの地域は、津波で街灯がほとんど流されちゃったでしょ。そのせいか、夜は街灯の代わりに、火の玉がたくさん出るみたいよ…」

「あの地域では『運転中に人を引いちゃったんですけど、誰もいなくて…こういう時は、どうしたらいいですか?』っていう通報が多過ぎて、警察も幽霊のことも説明慣れしてるみたいよ…」

心霊スポットって言葉を使うのであれば、あの頃は町全体が心霊スポットになっていたと思います。

例えば、日常生活を送る中で「ここは心霊スポットだよ!」と聞くと、よっぽどのモノ好きでない限り「近付きたい!」と言う人はいないと思います。でも、この地域では好き嫌いに関係無く、積極的に心霊スポットへ行く人が結構いました。

なぜか分かりますか?

今なら私も、行ってしまう人の気持ちがよく分かります。

震災当時、私は父を亡くしました。震災前は家族写真を撮る時、父を中心に皆が並んで撮っていましたが、震災後は父の場所を詰めて撮るようになりました。そんな時、幽霊の話題をよく耳にするようになった私は、家族写真を撮る時、わざと父一人分のスペースを空けて撮るようになりました。

心境は、いたってシンプルです。幽霊でもいい、ぼや〜っとでもいい、せめて顔だけでもいいから出て、写真に写ってほしい。心霊写真になってほしいと思うんです。でも残念なことに、そういう期待を持って写真を撮る時に限って、何枚撮っても出ないんですよ。それを見ながら「今回も出なかったね〜」って、ちょっと寂しそうに家族とよく話しました。

私みたいに “出てほしい” と思っている人の話も耳にしました。

「出るって噂の多い場所へ、毎日のように通ってるみたい…」

「亡くなった家族の食事も食卓へ準備しちゃうみたい…」

その後は、時間の経過と共に幽霊の噂も落ち着いて、最近はもう、ほどんど聞かなくなりました。

心霊スポットと聞くと、一般的には怖い、近付きたくない、苦手と思う人が多いです。でも、この地域では逆に嬉しい、会いたい、出てほしいと思う人も多いです。私自身も、前者から後者に変わった一人です。亡くなった人に対する愛情があれば、嫌だと思ってた心霊現象も “起きてほしい” と願うようになるのだと分かりました。

体の傷と心の傷

2011年9月、東日本大震災の被災地でがれき撤去をしていた時、依頼者のお母さんから聞いた体験談です。

震災当時、私は自宅にいたのですが、大きな揺れに襲われて焦りました。町内放送で津波警報のサイレンや「避難してください」のアナウンス響き渡る中、自宅が海のすぐ側だった私は、津波の危険を感じたからです。

すぐに避難しようとしましたが、小さな子供が二人いたため、歩いての避難は難しいと思い、車で避難することにしました。車の後ろの席に子供たちを乗せながら町会放送を聞いていると、最初は「3mの津波が予測されますので…」から始まり、気付いたら「6mの津波…」「10m以上の津波…」と、コロコロ変わるアナウンスを聞きながら困惑しました。一方、避難先で必要な最低限の物を車内へ積んでいる内に、避難も遅くなってしまいました。

結局、車で家を出る時は、もう周囲の人たちがほとんど逃げた後でした。でも、そのおかげで車の渋滞はほとんど無かったため、すぐに避難できそうだと思い安心しました。

家を出発して、海から遠ざかる方向へ車を走らせた時です。ふと、社内のルームミラーから後方を見ると、車のはるか後ろの方から、津波が勢いよく迫って来るのが見えました。その瞬間、私は自分の目を疑いました。一瞬時が止まったような感覚に陥りました。その後、 “ハッ” と我に返ったように全力でアクセルを踏む自分がいました。

車がぐんぐん加速する中、道路横の住宅街を一瞬だけ “チラッ” と見た時、道路脇の家の二階の窓からおじさんが体を乗り出している光景に気付きました。すると、そのおじさんと目線が合い、こちらを見て必死に叫びました。

「助けてくれー!」

その瞬間、時が止まったかのようでした。

えっ!?どうしたらいいの??

あらゆる想いが頭の中を交錯しました。

あのおじさんも助けなきゃ...おじさんを車に乗せても、ギリギリ逃げ切れるんじゃないか...でも、今ブレーキを踏んだら、おそらく津波に追いつかれる...母親として、この子供たちは絶対に守りたい...でも、あのおじさんを見捨てることもできない...いっそのこと、私と子供たちも、一緒にこのお宅の二階に避難しようか...

いろんな想いが交錯しても、私に与えられた選択肢はハッキリしていました。

ブレーキを踏むか?アクセルを踏み続けるか?二つに一つ。  どちらも踏みたいが、片方しか踏むことはできない。

一瞬の判断を迫られた私は、考える間もなく、直感で行動していました。

気付いた時、私が踏んでいたのはアクセルだった...

しかし、車よりも津波のスピードの方が速く、徐々に追い付かれて来ました。やがて、ルームミラーとサイドミラーは両方共、一面に津波の水しぶきしか見えなくなり “まずい” と思いました。

その時、車が川に差し掛かり、橋を渡って向こう岸へ移れました。すると、この川の川幅が広かったおかげで、津波が全て川の方へ流れ落ちてくれて、私と子供たちは助かりました。

その後、無事に避難先へ到着しました。車から降りて荷物を降ろしていると、車の後ろ半分くらいが津波の水しぶきを受けて濡れていることに気付き、ギリギリで逃げ切れたのだと分かりました。子供たちも無事だったので、母親としての責任を果たせた気がして、ホッとしました。

数日後、おじさんのことが気になっていた私は、おじさんの家を訪ねたのですが、その場所に家は残っていませんでした。後日、その地域に住んでいた方たちと話す中で、おじさんが亡くなったことを知りました。

半年後、おじさんから聞いた「助けてくれ!」 という叫び声は、今でも私の耳から離れません。こちらを見ながら深刻に助けを求める表情が、私の脳裏に焼き付いています。

あの時に “アクセルを踏んだこと” は、二人の子供に責任を持つ “母親” の判断 として、正しかったのかもしれません。しかしその行為は、見方を変えると “ブレーキを踏めなかったこと” にもなります。それは、助けを求められた一人の “人間” の判断 として、正しかったと言えるのだろうか…

当時は津波から逃げ切れたことで、周囲からは「良かったですね」とか「奇跡的ですね」と言われることが多かったです。しかし、助かった側からすると、両手放しで喜べたわけではありませんでした。

この時の私は、体には傷ひとつ負いませんでしたが、心に傷を負った状態だと感じました。

一般的に、体に付いた傷は目立ちますが、時間の経過と共に治ります。病院へ行けば薬ももらえて、より早く、きれいに治ります。その一方で、心の傷は目立たず、他者が見ても気付きません。しかし、時間が経過しても治りは悪いし、完治はしません。薬が何かも、よく分かりません。

心の傷は、体の傷より辛い症状なのだと分かりました。

幸せとは何か?

2013年、東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で農業支援を行った際、依頼者のお母さんから聞いた話です。

震災から、もう2年以上が経ったのね。あの日は、すごく揺れたの。ビックリして、揺れた後すぐに家の外へ出て海を見たの。

 依頼者の自宅から外に出た時の光景(2013/5/18)

すると、しばらくして海水が引き始めたのよ。ずいぶんと引くな〜と思って見ていたら、30メートル位海水が引いて、海面が2〜3メートル位下がったのよ。ずっとこの町に住んできたのに、あんな光景は初めてで驚いたわ…砂浜の広さが3倍くらいになったの。

これは絶対、ただごとじゃない!間違いなく津波が来る!かつて無いくらいの大きな波が来る!早く逃げなきゃ!!」

と思ったのよ。幸い、家の裏が高台になってたから、すぐに避難できたの。その後、高台から海の沖の方を見ていると、あの津波が迫って来て、私の家に覆いかぶさって来た … “普通の日常” が、一瞬にして失われた瞬間だった。

    依頼者の自宅の庭から海側を見た時の光景(2013/5/18)

津波が引いた後は、一言でいえば “見る影もない”って状況だったわ。この辺りの山という山は、津波によって海面から10m位の高さまでの新緑が削られて、はげ山のような光景になっていたわ。更に、その山のふもとにあったはずの村や集落は流されちゃったの。

「あそこにあった村は、どこへ行ったの?みんな無事なの?」

声にならない声が多かったわ。初めてこの地域に来た人であれば、村どころか家があったことも気付かないくらい、全部が流されて何も無くなっていたの。

地震と津波が去った後、地域の復興のためにたくさん働いた。

たくさん苦労したし、たくさん悩んだし、たくさん傷付いた。

半年が過ぎ、一年が過ぎ、気付いたら二年が過ぎていた。

この地域も、ある程度の落ち着きを取り戻してきた。

そんなある時、ふと思ったの。

「そう言えば、“幸せ”って何かしら…?」

心境を吐露される依頼者さん(2013/5/18)

震災前は、不満があるとすぐ文句を言ったり、些細なことでイライラしたり、ちょっとしたストレスをすぐ吐き出すのが日常茶飯事だったわ。もちろん、特別なことや良いことがあった時は楽しいんだけど、平凡なことを繰り返す毎日は飽きちゃって、嫌になってたのよ。

でも震災後、被災してからの2年間を過ごしながら、ずっと頭から離れなかった光景、懐かしがっていた思い出は “震災前の普通の生活” だったのよ。そこに気付いた時、私は思ったわ。

「特別な嬉しい出来事のことを “幸せ” と言うわけじゃない。普段からの何気ない生活、平凡な日常こそが “一番の幸せ” だったんだな。」

今回のことで、それがよく分かったわ。みんなは、まだ若いから、なかなか実感しにくいかもしれないけど、普通の暮らしができるって素晴らしいことよ。忘れないでね。