語り部をやる理由 [後編]

東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で、語り部をしている人から聞いた、ご自身の体験談です。

[前編のつづき]

地震発生から30~40分後、街に津波がやって来ました。津波は防潮堤を乗り越えて住宅街へ侵入し、私たちの町を次々に破壊し始めました。その瞬間、私を含めた誰しもが予想していなかった “想定外の事態” が発生したのです。

津波の侵攻する音が町中へ響く一方、まるでその音と競うように、町中へ響き渡るもう一つの音がありました。

「津波が来ています!早く避難してください!!」

それは、避難を呼びかける町内アナウンスの声でした。声の発信場所は、街の中心部に位置する防災対策庁舎(高さ12mの3階建て)でした。当時は、町長を始めとする町職員50名以上がこの場所で災害対応をしつつ、男女2人の職員が交代しながら、町内アナウンスで避難を呼びかけていました。この2人は私の知人でもあったので、当時のアナウンスの声は、私自身もよく覚えています。その声は、力強い叫び声のようなアナウンスで、まるで「津波の音なんかに負けるものか!」と言わんばかりに、町中へ響いていました。

町内アナウンスというのは、普段の落ち着いたトーンで話されても、なんとなく聞き流してしまいがちです。しかしこの時は、その声があまりにも必死だったため、“ハッ”と我に返ったかのように高台へ逃げてくる人も多くいました。

しかし、津波はやがて防災対策庁舎にも到達してしまいました。「もう逃げられないんじゃないか?」「庁舎にいる人は大丈夫か?」と、高台から見ている誰もが心配になりましたが、アナウンスは止まりませんでした。あの時もしかしたら、庁舎の職員も覚悟を決めていたのかもしれません。

しかし、2階位の高さまで浸水した頃、突然の “プツッ” という音を最後に、アナウンスは聞こえなくなりました。その後は、津波によって家々の壊れる音だけが町中に響きました。津波の高さは更に上昇して、最終的には高さ12mの庁舎がどこにあるのかも分からなくなりました。

気付けば、雪も降り始めました。気温も下がって冷え込んできたかと思うと、街の様子も見えなくなるくらいの大降りになりました。ただ、建物の壊れる音も聞こえなくなってきたため、津波も徐々に落ち着いてきたのは分かりました。そこで、高台にいる人たちも皆、建物内へ避難しました。

後日、この町を襲った津波の高さは約15mだったと分かりました。高さ12mの防災対策庁舎は屋上まで津波が届き、屋上に建っている電柱とフェンスの一部だけが、辛うじて津波の上に顔を出している状況だったようです。結果的に、この場所で助かった職員は10名だけでした。多くの犠牲が出てしまった一方、その場所から発信された命懸けのアナウンスは、多くの人の命を救いもしました。私の知人でも「あの必死な声で背中を押されるように避難した」「最初は自宅にいたけど、あの声で “ハッ” と我に返ったように避難した」と話す人は多かったです。

多くの犠牲が出た場所は基本、取り壊されてしまいますが、この建物は震災20年後(2031年)まで残されることになりました。そこに意味を感じた私は、語り部をする際に、防災対策庁舎の話も紹介しています。

私は語り部をしている関係で、全国からこの町へ来る人と話す機会は多いのですが、その際、この町へ来たキッカケを聞いてみると、「町内アナウンスの話に感動して…」「残された庁舎の建物を見たくて…」と答える人が多いです。学生さんであれば「学校の授業中に『天使の声』というタイトルで学び、興味を持ったので…」と答える人もいます。

今回の東日本大震災に限らず、自然災害が起きると「どのような被害が出たか?」「復興はどこまで進んだか?」などの “目に見えている事実” に関心が向けられてしまいがちです。しかし私は、“目に見えていない事実” にも関心を向けてほしいと思っています。その方が、一人一人の人生により良く、より大きく影響すると思うからです。

ただ、震災を経験していない人へこの内容を伝えるためには、書籍や映像だけでなく “語る人” も必要だと私は感じました。それが、私が語り部をやる理由かもしれません。

語り部をやる理由 [前編]

東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で、語り部をしている人から聞いた、ご自身の体験談です。

2011年3月11日の午後2時46分、東日本大震災が発生しました。その当時、私は近所のスーパーで買い物をしていました。突然の大きな揺れに驚いた私は、買い物かごを頭からかぶり、店内の安全な場所で、揺れが収まるまでじっとしていました。店内を見渡すと、揺れに驚いてパニックになり、店の外へ逃げようとする人が多かったのですが、揺れがあまりにも激しかったため、まともに歩けている人はいませんでした。結局皆、店内で何かにつかまったり、四つん這いになった状態で、揺れが収まるまでじっとしていました。

地震と聞くと普通、揺れは5秒~10秒程度をイメージすると思いますが、この時は違いました。30秒経っても1分経っても揺れ続けていました。一度、揺れが収まったかと思ったのですが、また強く揺れ始めました。結局、一通りの揺れが収まって立ち上がることができたのは、最初に揺れ始めてから4分位経った頃でした。つまり、丸3分は揺れ続けていたと思います。

揺れが収まると、私は直感的に「ここまで揺れたら、津波が心配だ…」と思いました。店の外へ出ると、道行く人たちは「どうしたらいいんだろう?」と混乱した雰囲気だったので、「津波が来るかもしれないから、高台へ避難しましょう!」と促しながら、私自身もすぐに避難しました。

山の上の高台へ到着すると、町の中心街から海の方まで一望できました。私は、海の様子の変化を注視していましたが、遠目に見ている限りは、10分経っても20分経っても、海はいつもと変わらぬ景色でした。一方、町では津波警報が鳴り響いていましたが、ここは海が近いため、警報が鳴ることは今までも何度かあり、ここまでは住民にとっても慣れたもので、わざわざ高台までは逃げない人も多かったくらいです。

すると、地震から30~40分が経過した頃、海の様子が変わり始めたと思うと、津波がやって来ました。しかし、この町は過去にも津波に襲われた経験があったので、沿岸部には防潮堤があり、津波の到達前には、水門もしっかり閉められていました。おそらく町民にとっても、ここまでなら想定内だったと思います。高台に避難した人たちも、最初は安心した様子で「あれは津波っぽいね~」「あれだけ揺れたんだから、波も来るよね~」と、和気あいあいとした雰囲気で話していました。

しかし、防潮堤は津波を止めることができませんでした。津波が防潮堤や水門を軽々と飲み込んでしまったのです。津波はそのまま、住宅街へ侵入していき、私たちの故郷を次々と破壊し始めました。

その光景を目の当たりにした高台の人たちは様子が一変、まるで魂が抜けてしまったかのように、ただ茫然と、その光景を見つめていました。何か話そうとしても、うまく言葉にできず、誰もが「何これ?」「嘘でしょ?」「もう終わりだ…」と、同じ言葉を繰り返すばかりでした。

誰しもが予想していなかった “想定外の事態” が発生したのです。

[後編へつづく]

仕事へ取り組む姿勢

東日本大震災の発災当時、被災した地域の新聞社で働いていた方から聞いた話です。

震災当日、津波は新聞社の2階の床上まで届いてしまいました。 電気機器がやられ、1週間ほど印刷できない状況になってしまいました。しかし、紙とペンは準備することができたので、印刷機が使用できない期間は手書きで避難所の掲示板へ貼るタイプの壁新聞を発行することにしました。

震災翌日の3月12日、早速、壁新聞の第一号を作りました。配布は午後になってしまいましたが、複数の避難所の壁に新聞を張り出すと、「助かります」や「待ってたよ」という声と共に、多くの人が食い入るように読んでいました。ただ、記事の内容としては被害情報などの暗いニュースが多かったため、紙面の上段には、できるだけ良いニュースや希望的なニュースを載せるようにしました。

新聞社という職場環境のため、良くも悪くも震災に関する様々な情報が入ってきました。中には、被災地での取材中にご遺体を発見する記者もいたため、記者たちは皆 “いつか、親しい人の不幸にも遭遇してしまうかもしれない” という覚悟を持って取材にあたりました。どんなに辛い話からも逃げず、事実と対峙しようとする姿勢が求められました。

東日本大震災は “1000年に1度” と言われています。その “1度” に遭遇した被災者からは「俺たちは運が悪かったのか?」「誰を恨めばいいんだよ」「なぜ、今 (2011年) なんだ?」「先祖が沿岸地域に街を作ったせいで、子孫の我々が痛い目にあった」と訴える声を、震災直後は数えきれないほど聞きました。何を隠そう私自身も、自然環境に対して「ここまでやるかよ!!」と怒りを覚えた一人でした。

しかし一方では、家族の不幸に遭遇しつつも「起きたことは仕方ない」「こんな時こそ、ご近所で助け合ってます」「私が前を向けば、子供も笑顔になると思うので…」と、震災を受け止めて頑張ろうとする人の声も多く聞きました。更に、時間の経過と共に「震災前より良い街に変えることが供養になる」「私が苦労すれば子や孫の世代を津波から救える」と、少しでも前向きの方向に捉えようとする人の声も増えてきました。

そして、多くの “声” に触れる中で、東日本大震災に対する私の考え方も変わりました。

私は、震災を “課題” だと捉えています。それは、数十年くらい時間をかけて、じっくり解決していく大きな課題です。課題は既に出題されてしまったので、今更無かったことにはできません。しかし、課題に向き合って取り組めば、前へ進むことも可能です。ただ、解決へ至るためには計り知れない苦労が必要なので、それが嫌なら、課題に取り組まなくても、誰も文句は言いません。

今から数十年後の日本が、果たして、良い方向へ進んでいるか?悪い方向へ進んでいるか?は、「日本国民一人ひとりが、この課題に対してどう向き合うか?」にかかっていると、私は思っています。

私は、自分自身が被災した理由は “運が悪かったからだ” と、震災直後は思っていました。しかし、本当はそういう理由ではなく、“課題を解決できると信頼された私たちが、時代から託されたからだ” と思うようになりました。そして、「1000年に1度の課題を解決すれば、今後1000年先の子孫まで、同じ辛さを経験させなくて済むだろう」と、私は考えています。そして、「この課題を少しでも解決の方向へ近付けることで、未来のこの国を平和にしたい」という使命感を持って、仕事に向かっています。

私自身の使命感が明確になったことで、より、仕事にも力が入るようになり、震災前よりも忙しい毎日になりました。しかし、仕事に対して嫌な感情が全然湧かなくなり、苦労が増えても「ありがとう」と思えるようになったのです。「仕事とは本来、こういう姿勢で取り組むべきなのだろうな…」と、私自身も教えられた気がします。

ボランティアに必要な要素

2015年9月の関東・東北豪雨の被災地である茨城県常総市で、被災した人から話を聞きました。この人の持つ工場は、近隣の河川の堤防が豪雨で決壊したことにより、床上2~3mの洪水被害にあいました。

豪雨の時は、工場の近くにある川が「決壊しそうで危険だ!」という情報が入ったため、予め避難したことで人命は助かりました。しかしその後、洪水が落ち着いて水が引いた後に工場の様子を見に行くと、建物の外観は大丈夫でしたが、屋内は被災してグチャグチャでした。泥やがれきが、工場内一面に50cm位の高さで堆積していたため、その光景に圧倒されました。

しかし、立ち止まっていても何も始まらないので、「とりあえず何とかしなきゃ」という思いになり、できるところから片付け始めましたが、全然進みませんでした。例えるなら、「小学校の体育館の中一面に、膝上の高さで泥とガレキが溜まっていて、それを自分一人で、道具はスコップ一本だけで、全て片付け終わるまでは収入0だ…」 と言われたような状況でした。

諦めかけていたある日、ふと近所を見ると、ボランティアさんが作業している光景を見ました。「もしかしたら、自分も頼めるのかな?」と思って相談すると、すぐボランティアさんが来てくれました。最初は10人でしたが、工場内の泥の多さを見たら、翌日は20人以上来てくれました。その後も継続して手伝ってくれたおかげで、数日後には泥の下に隠れていた床のコンクリート面が見えるようになりました。最初は「もう、何もかも終わりなのかな」と “絶望” していたのに、「また、この場所で仕事を再開できるかもしれない」と “希望” が見えたんです。 支援してくれたボランティアさんは100人以上になります。本当に助かりましたよ。

私は、来てくれるボランティアさんたちに話をいろいろと聞く中で、驚いたことがあります。「ボランティア」と聞くと、私は最初「体力に自信のある人やお金や時間に余裕のある人、ボランティア経験豊富な人」がやる活動だという先入観がありましたが、実際は全然違ったのです。60代後半の定年後の人や10代前半の子供、バイトの合間に来てくれた金欠気味の学生、わざわざ仕事を休んで来てくれた社会人、縁も無いのに九州などの遠方から来てくれた人もいました。更に、ボランティア自体が初めてという人が想像以上に多かったです。

そんな姿を見ながら、私のボランティアに対するイメージが変わりました。ボランティアにおいて体力や経済力、経験値などの有無はあまり関係無くて、それ以上に大切なのは 気持ち だと感じました。実際、私がボランティアさんと接しながら感動した瞬間は、ボランティアさんの “働きぶりを見た時” よりも、その “心意気を聞いた時” でした。助けたいという気持ち一つあれば、誰にでも素晴らしいボランティアができるのだと思いました。

実は私、2011年の東日本大震災の時に、ボランティアをするために現地へ行こうとしたことがあります。ただ、当時の私は「ボランティア未経験の私は役に立てないかも…」「土地勘の無い私が行くと、逆に迷惑をかけるかも…」「休みもつぶれちゃうし…」と、いろいろ考えた末に、行くのを止めました。今になって振り返ってみれば、当時の私は、行かなくてもいい理由を見つけて自分を納得させていただけだと分かりました。お恥ずかしながら、私の中にある “助けたい” という気持ちが弱かっただけだと気付いたんです。

今回、私はボランティアを “される側” になってみて、その有難さをすごく身に染みました。そして「3.11の時、なぜ自分は行かなかったのだろう」 という後悔と共に、「次に大きな災害が起きた時は、ボランティアを “する側” になろう!」という気持ちが強くなりました。

“慣れ” は良いことか?

東日本大震災の被災地支援をきっかけに被災地へ移住した人から、ご自身が移住するきっかけになった話を聞きました。

東日本大震災から2週間後、私は物資支援が目的で被災地へ行きました。長期滞在すると現地にとっても迷惑だと思い、物資を現地へ届けたらすぐ帰るつもりでした。当時はまだ、物資がほとんど届かずに困っている地域もあると聞いていたため、被災地の中でも、より物資が不足していそうな地域へ向かいました。

現地へ到着すると、その光景の悲惨さに驚きました。最初はボランティアする予定は一切無かったのですが、地元の高齢の人たちが必死にがれきを片付ける様子を見たら「これは、手伝わなきゃいけない」と思い、軽い気持ちで手伝い始めました。すると、作業を始めて間もなく「ちょっと、そこのお兄さ〜ん。こっちも手伝って〜」と、誰かから呼ばれました。振り向くと、遠くにいるお母さんが私を呼んでいたので、小走りに行ってみると「お兄さん、あれを降ろしてくれない?」と言われました。お母さんが指差す方向を見ると、電柱の上に何かが引っかかっていました。最初は何か分からなかったので、電柱に近付いてよく見てみると、それは既に息絶えた “人” だったのです。それが分かった瞬間、私はすごく怖くなりました。お母さんからは「何とか降ろしてくれないかな?…お兄さん、力持ちでしょ?」と頼まれるのですが、私は足の震えが止まらなくなりました。それでも私は「何とか、この人の力になりたい」と思ったのですが、結局、その時はその場から一歩も動くことができませんでした。

これが、私にとって最初のボランティア活動でした。

その後、被災地における深刻な人手不足を痛感した私は、ボランティア活動を始めました。活動場所は、元々震災前から高齢化が進んでいたため “限界集落” と呼ばれていた地域を選びました。災害ボランティアセンターのサテライトを設置する話が出た際も、地元住民ではなく、よそ者の私がリーダーに任命されてしまうくらい、若い人(30~40代の働き盛り世代)が少ない地域でした。

それから数ヵ月が経過した、ある日の出来事です。

私が活動していた町で、被災した人たちを元気付けようと、よさこいのチームが公演に来てくれました。震災後は皆、慣れない避難所生活や自宅の泥出し、職場の再建などで忙しく、イベントや行事をやる雰囲気でもありませんでした。そのため、住民にとっては久しぶりの息抜きの場ということで、私も住民の方から誘われて、一緒に見に行きました。

会場へ着くと、よさこいのチームが舞台に立ち「皆さん、本日は私たちのよさこいを見に来てくれて、ありがとうございま〜す!」と挨拶をしていました。続いて、「最初にお見せするのは、皆さんもどこかで聞いたこがあるであろう曲、ソーラン節です!…では、始めます!」と、演目がスタートすると、会場が “待ってました” とばかりの盛り上がりを見せました。

すると、私も住民の方と一緒に盛り上がり始めた時です。急に後ろから、誰かに “トントン” と肩をたたかれて「申し訳ありませんが、ちょっと、こちらへ来ていただけますか?」と、小声で言われました。イベント会場を抜けて着いて行くと、自衛隊員の方がいて「お取込み中すいません。ちょっと、遺体の身元確認お願いします!」と頼まれました。数件対応すると「…以上です。ご協力に感謝いたします!」と言われて、私は再びイベント会場へ戻りました。すると、住民の方から「あれ?どこへ行ってたの?」「さっきは、かなり盛り上がってたんだよ。」と言われたので、「すいません。ついつい、トイレが長くなっちゃって…」とごまかして、何も無かったかのように住民の輪に入りました。

私は、あまりにも極端過ぎる環境の変化に不思議な感覚を覚えましたが、その変化にも、いつの間にか慣れてしまっていました。

この出来事は、私にとって非常に印象的でした。しかし、その出来事以上に印象的だったのが、私自身の心境の変化でした。最初は、ご遺体を前にするとカナヅチだった私が、気付いたら、当たり前のように遺体の身元確認をしていたのです。この出来事を通して “慣れること” のすごさを感じましたが、同時に恐ろしさも感じました。人は、継続する物事に対して “良くも悪くも” 慣れてしまうのだと痛感しました。

震災二ヶ月後、わざと罪を犯して捕まった自衛官のニュースが話題になりました。なぜ罪を犯したのか聞くと、「罪を犯して捕まれば、もう、被災地に行かなくて済むからだよ…」と答えたそうです。私はこのニュースを聞いた当初、なぜ自衛官がそこまでするのか全く理解できませんでした。しかし今なら、その気持ちも分かります。この自衛官はおそらく、私と同じことに慣れるのが嫌だったのだろう、と思いました。

一旦、物事に慣れてしまえば、そこから過度なストレスを感じることも無いので、楽ではあります。そう考えると、私の感じた慣れは、悪いことではないかもしれません。

しかし、決して良いことでもないように思いました。「この慣れは、他の人には味わってほしくない」と思ったことが、私が被災地へ移住する一つのキッカケになりました。

幸せとは何か?

2013年、東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で農業支援を行った際、依頼者のお母さんから聞いた話です。

あの日は、すごく揺れて驚きました。揺れが収まった後、私はすぐに家の外へ出て海を見ました。

すると、しばらくして海水が引き始めました。「ずいぶんと引くな〜」と思いながら見ていると、気付いたら30メートル位海水が引いて、海面自体が2〜3メートル位下がり、砂浜の広さが3倍くらいに拡がりました。私は今までの人生60年以上、ずっとこの地で海と共に暮らしてきましたが、あんな光景を見たは初めてだったの驚きました。

 依頼者の自宅から外に出た時の光景(2013/5/18)

それで、ただ事じゃないことが起こっていると感じ、「間違いなく津波が来る」「かつて無いくらいの大きな波が来る」「早く逃げなきゃ」と思いました。幸い、家の裏が高台になっていたので、避難はすぐにできました。その後、高台から海の沖の方を見ていると、まるで壁のような大きな津波が迫って来ました。やがて陸地に到達したかと思うと、私の家に津波が覆いかぶさりました。 …今までの普通の日常が、一瞬にして失われた瞬間でした。

    依頼者の自宅の庭から海側を見た時の光景(2013/5/18)

津波が引いた後は、一言で言えば “見る影もない” という状況でした。この辺りの山という山が津波によって海面から10m位の高さまでの新緑が削られて、はげ山のような光景になっていました。さらに、その山のふもとにあったはずの村や集落は流されてしまい、津波が引いた後は、ただの空き地のようになっていました。「あそこの村は、どこへ行ったの?」「住んでたみんなは、無事なの?」と、声にならない声次々とあふれてきました。初めてこの地に来た人が見たら、おそらく、村どころか、家があったことも分からないくらい、きれいに全部流されてしまい、何も無くなっていました。

地震と津波が去った後、地域の復興のためにたくさん働きました。たくさん苦労したし、たくさん悩んだし、たくさん傷付きました。そうこうしているうちに、半年が過ぎ、一年が過ぎ、気付いたら二年が過ぎていました。そして、この地域もある程度の落ち着きを取り戻した頃、ふとした疑問が湧いてきたのです。

「そう言えば、“幸せ”って何かしら…?」

心境を吐露される依頼者さん(2013/5/18)

震災前は、不満があるとすぐ文句を言ったり、些細なことでイライラしたり、ちょっとしたストレスをすぐ吐き出すのが日常茶飯事でした。そんな中で、“幸せを感じた瞬間” がいつだったのか考えてみると、“特別な出来事があった時” や “お金をかけて贅沢をした時” が思い起こされました。つまり、時々訪れる幸せのために、日々の日常生活を耐え忍んでいるようなイメージでした。あの頃の私は、平凡なことを繰り返すだけの毎日は飽きてしまい、どこか嫌になっていたのです。

しかし、震災で被災してからの2年間を過ごしながら、ずっと頭から離れなかった光景は何かといえば、家で家族と食事したり、テレビを見たり、畑仕事をしたりという、震災前の “普通の日常生活” でした。そこに気付いた時、何か特別な出来事のことを幸せと呼ぶわけではないのだと、私は悟ったのです。何気ない普段の日常、平凡な生活こそが、実は “一番の幸せ” だったのです。

今の私を客観的に見ると、震災前と比べて平凡で、苦労も多くて、特別感の無い生活を送っています。でも、明らかに震災前と比べて “幸せ” をより多く感じる生活になりました。普通の暮らしができること、それこそが有難いことであり、素晴らしいことだと、今では心から思っています。

ボランティアは双方向

東日本大震災で被災した人が、被災体験から得た教訓を教えてくれました。

震災当時、私は高校2年生で、宮城県南三陸町の沿岸地域(津波が約15m届いた地域)に自宅がありました。

東日本大震災が発生した3月11日、私は自宅の隣町にある集会所で部活の合宿中でした。2時46分、すごい揺れを感じました。幸いにも、集会所は高台に位置していたため津波は届かず、その場所自体が避難所にもなっていたため、私は自宅へはすぐ帰らず、状況が落ち着くまでは部活仲間と共に集会所で過ごすことにしました。翌日になると、私たちも含めて避難者が150名以上に増えました。一夜にして避難所となったその集会所で、私たち部活仲間は炊き出しや物資配布、避難所の運営など、ボランティアとして手伝いました。

震災から1週間後、私たち部活仲間はそれぞれの自宅へ帰りました。しかし、私が帰宅してみると、家があったはずのその場所には、建物らしき物が一切ありませんでした。地面は一面、泥とがれきでぐちゃぐちゃだったため、最初は自宅の敷地もどの場所か分かりませんでした。道路の形状、津波に流されずに残ったマンション、近隣の山々など、目印になりそうなものの位置関係を確認しながら「自宅があったのは、おそらくこの辺りの場所だろう」と推測しました。そこに散乱していたがれきを横にずらしてみると、その下には、辛うじて家の基礎部分が残っていました。そこで、家の敷地の端から、その基礎部分に沿ってゆっくり歩きながら「位置的には、ここが玄関かな?」「この場所は風呂場で、こちらがトイレかな?」と、独り言のようにつぶやきました。

後日の話になりますが、家族アルバムが1冊だけ見つかりました。自宅から車で10分走った先の山のふもとから見つかり、津波でここまで流されてきたのかと思うと、驚きました。

自宅跡地を一通り見た私は、近くの高台にある避難所へ行き、3週間過ごしました。そこで家族とも再開できたのですが、喜びもつかの間、私はすぐに避難所の運営ボランティアを手伝い始めました。当時は避難所も人手不足でしたし、何かしていた方が、気も紛れて良いと思いました。

震災1ヵ月後、私は内陸に位置する親戚の家へ引っ越したことで、生活環境が一気に変わりました。寝袋にくるまりながら数百人で雑魚寝をしていた避難所生活からガラリと変わり、静かな部屋のベッドで寝る普通の日常生活になったのです。当然、喜ばしいことなのですが、当時の私にとっては生活環境の変化があまりにも突然過ぎたため、そのギャップに違和感を感じ、しばらくの間は慣れませんでした。落ち着いた空間のはずなのに、どこか心は落ち着かず、しばらくは寝付くのに時間がかかりました。

その影響もあったのか、高校が再開するまでの期間(震災2ヵ月後まで)は、安全な親戚の家から被災現場の広がる避難所へ、ほぼ毎日のように通いながら、朝から晩までボランティア活動をしました。

しかし、その時の私は自宅や故郷、友人までも失って人生最大のストレスを抱えていたため、私のことを心配する両親からは、ボランティアを止められることが何度もありありました。「今日はボランティアはせず、家で休みなさい」と言われることは度々あり、時には「お前はそんなことしなくていいんだ!」と怒鳴られたこともあります。それでも私は、ボランティアを絶対に休まず、毎日続けました。避難所では、私以上に辛い思いをして苦しんでいる人が周囲に大勢いたので、そんな人たちを見ていると居ても立ってもいられず、気付いたら体が勝手に動いてました。

震災2ヵ月後(5月のGW後)、高校3年生の新学期が約1か月遅れでスタートしました。すると、学校へ通い始めたことがキッカケで、自分の気持ちも少しづつ落ち着きを取り戻して、ようやく普段の日常生活に戻っていけました。

その後、私は無事に高校を卒業して社会人になり、生活も落ち着きを取り戻しました。街の再建も進む中で、震災の痕跡は徐々に減ってきています。震災当時は無我夢中で分かりませんでしたが、後から改めて振り返ってみた時、気付いたことがあります。

震災当時の私が、なぜ、あそこまでボランティア活動にこだわっていたのか?それは、ボランティアで手助けした人たちが私に返してくれる ❝笑顔❞❝感謝の言葉❞ があったからでした。つまり、一見すると私がボランティアを する側 に見えていたのですが、気持ちの面では逆で、私がボランティアを される側 になっていたのだと分かりました。

この時の経験を通して、私はボランティアの捉え方が180度変わりました。以前は、ボランティアは一方通行、受ける側にのみメリットがある活動だと思っていました。しかし今は、ボランティアは双方向、授ける側にもメリットがある活動だと、私は思っています。

ボランティアする理由

東日本大震災の被災地で、長期的にボランティアをしている人から聞いた話です。この人の地元は関西で、個人的にボランティアへ参加していました。

私は、震災から1ヶ月後くらいの時期に被災地へ行きました。最初は、数日間だけボランティアをやるつもりで被災地へ行きましたが、いざ活動を始めてみると、気付いたら1ヶ月が経過していたので驚きました。「時間が経つのが早過ぎる」と思っている内に、2ヵ月が経過しました。

基本的に、ボランティアはかかる費用が全て自腹だったため、私の周囲では数日~1週間程度活動する人が多く、長い人でも1~2ヶ月でした。それ以上続けると、その後の自身の生活も危うくなってくるからです。

しかし、2ヵ月が経過しても、一向に被災者からの作業ニーズが減らず、むしろ増えているような状況だったため、私は「ここまで来たら、できる限り支援しよう」と思って活動を続けました。

すると、瞬く間に半年が経過しました。貯金もだいぶ減ってきていました。ここまで継続していると、周囲からも止められるようになりました。「もう、十分支援したと思いますよ」「これ以上続けたら無一文になっちゃいますよ?」「夢もあるんでしょ?」と、ボランティア仲間が気遣ってくれました。

更に、「おかげさまで、私たちは元気になったよ!」「そこまで自分を犠牲にしなくてもいいんですよ」「そろそろ、自分の夢に向かいなよ!」と、現地の人たちまで私が無理をしないようにと、気遣ってくれました。

しかし、私はまだ、終わるつもりはありませんでした。「自分の店(飲食店)を出そうと思って貯めた貯金があったから大丈夫ですよ」「仕事も正社員ではなく、飲食店で修業中の身だったので、すぐ辞めれて、都合が良かったんですよ」と、周囲に説明をしつつ、金銭的にはできるだけ節約しながら、活動を続けました。

震災から1年後、がれきの撤去作業はある程度落ち着いてきたため一つの節目の時期になったと思いました。貯金が底をついたこともあり、「そろそろ、帰り時かな」と思いました。後ろ髪引かれる思いもありましたが、地元へ帰ることにしました。

周囲からは、「ボランティアの域を超えてますよ」「赤の他人のために、なぜそこまで自分を犠牲にするんですか?」と、よく聞かれました。私の個人的な野望や思想を聞かれるのですが、そういった格好のつく理由は、私には特に無かったんです。しいて、何か挙げるとすれば「困ってる人を助けたい」くらいしかなかったですね。

思い起こせばあの日 (2011年3月11日)、私の地元である兵庫はほとんど揺れず、被害は特にありませんでした。友人たちと話す時は大抵、震災の話題が出たのですが、「被害が悲惨過ぎたせいか、逆に実感が持てないね」「you tubeの被害映像を見ても、まるでSF映画を見ているよう」と、どこか他人事のような会話が多かったです。でも、私の場合は、震災直後から東北のことが気がかりで、何をする時も頭から離れませんでした。というのも、私は1995年の阪神淡路大震災で被災した経験があります。当時高校生だった私は、自宅で被災しました。あの時、肌で感じた大きな揺れや地元の悲惨な光景は、震災から15年以上が経過した今でも、ハッキリ覚えています。あの時、心が幼かった私は地元のために何も貢献できず、自分の無力さを悔しく思いました。そこで、今回は少しでも支援しようと思いました。

ボランティア活動をしながら、様々なボランティアさんと話していると、ボランティアする理由や、自分のボランティア論を語る人も結構います。でも、長々とあれこれ語る人ほど、逆に嘘っぽく聞こえる気がするんです。もし、被災したのが自分の友人や家族だとしたら、誰だって、長々とした理由が無くてもすぐ助けに行くと思うんです。だから、ボランティアする理由はもっと単純で、シンプルでいいのではないかと、私は思っています。

笑顔の力

東日本大震災で被災されたお母さんから話を聞きました。ご自宅は2階建てで、1階部分が店舗、2階部分が住居でした。

震災当時、私は自宅にいました。2階の住居は大丈夫だったのですが、1階の酒屋は天井まで津波に浸かってしまいました。店内は一面泥だらけで商品も全て流されてしまい、津波が引いた後は見る影もありませんでした。当然、営業再開も厳しい状況だったので、主人といろいろ相談した末に、閉店する方向性で話が落ち着きました。

しかし、主人にとってこの店は単なる仕事ではなく、趣味であり、楽しみでもあり、生きがいだったんです。だから、閉店を決めてから主人はすっかり元気を無くしちゃいました。何に対してもヤル気が出なくなり、笑顔も少なくなり、やがて鬱になってしまったんです。更に、あまりにも動かなくなったので、体もどんどん太っていきました。

私は心配になったため、主人には専門の人からのカウンセリングを受けてもらいました。でも、主人の場合は鬱の原因が精神的なものではなく、具体的なもの(お店の閉店)でした。例えカウンセリングを受けたところで、原因が解決に向かうわけでもなかったので、鬱の症状は改善しませんでした。

一方で、市による街の再開発計画もなかなか提示されませんでした。お店の場所は河川の側だったため、場合によっては「再開発工事に影響する場合、強制退去になる可能性もあります」と聞いていました。そのため、この場所(店舗兼自宅)は取り壊されるのか?引越し先はどうするか?仕事はどうするか?悩み事は絶えませんでした。

結局「強制退去の話は無くなりました」と明確になったのは、悩み始めてから1年が過ぎた頃でした。引っ越す必要はないと分かってホッとした反面、あまりにも悩み過ぎたせいか、私自身も精神的に疲れてしまい、今更「希望を持って頑張ろう」という気持ちにはなれませんでした。

そんな時、心配して様子を見に来てくれたボランティアリーダーの方と、このお店の事情を共有しました。すると「私たちで良ければ、できる限りお手伝いしますよ」という話が出て、既に諦めていた私は驚きました。そして、あるボランティアさんからかけられた言葉が印象的でした。

「俺、やってやりますよ!」

その言葉を聞いて、私も心が動きました。店を再開できるかは分かりませんでしたが、「できる限りやってみたい」という気持ちが芽生えたんです。

そこからは、ボランティアさんが継続的に支援で来てくれました。顔も名前も知らない私たちのために、朝早くから店に来て、汗を流しながら作業しても嫌な顔一つせず、作業中に顔が汚れちゃっても、夕方になると笑顔を残して帰って行きました。店内の隅々まで泥汚れを取ったり、天上の柱も一本一本磨いたり、汚れがこびり付いた箇所を洗浄したり…など。1日や2日で終わるはずは無く、1週間、1ヶ月と継続してくれました。おそらく、業者でなくてもできることは、一通りやってくれたと思います。

そんなボランティアさんの明るい笑顔に毎日のように触れながら、主人は徐々に笑顔を見せるようになってきました。また、ボランティアさんが必死に尽くしてくれる姿に刺激されて、片付けも徐々に手伝うようになっていくのを見ながら、主人の鬱の症状が徐々に改善していくのが分かりました。

店内がどんどんきれいになっていくのを見ながら「これなら、頑張ればお店を再開できるかもしれない」と思った私は、ある日、主人に相談しました。すると、主人も希望を持ち始めて、見違えるように元気を取り戻していきました。更に、体もどんどん動かすようになったことで、太っていた体も徐々に引き締まり、震災前の健康そうな体つきに戻りました。主人の劇的な体型の変化は、ボランティアさんからも驚かれるほどでした。

数ヵ月後、お店は無事に営業を再開しました。震災前と比べると、商品の数は少なくなり、客足も減りました。でも、お店を営業していること自体が、主人にとっての幸せなんです。そんな主人を見ながら、私自身も嬉しくなりました。振り返ってみれば、ボランティアさんの “笑顔” に触れたことがキッカケで、主人は鬱が治りましたし、私自身も救われました。

震災直後は、お店の営業再開なんて叶わぬ夢、私たち夫婦にとっては大き過ぎる夢でした。でもボランティアさんが力を貸してくれたからこそ、叶えることができました。そのため今は、“お店を続けること”“主人の笑顔が続くこと” という、新しい夢が見つかりました。今度目指すのは小さい夢ですが、他人の力は借りずに、私たち夫婦の力だけで叶えたいと思っています。

5分あれば家族になれる

ボランティア団体のリーダーから聞いた話です。最初は、一個人のボランティアとして被災地を訪れましたが、その後、ボランティア団体のリーダーになって被災地へ大きく貢献された人です。

2011年4月上旬、個人ボランティアとして東日本大震災の被災地を訪れました。私自身がボランティア初心者ということもあり、最初は分からないことだらけで不安も多い中でしたが、周囲で活動する人たちを見よう見まねでボランティアを始めました。すると、活動を始めて間もなく、私を含む多くのボランティアは「待ち時間が長い」という共通の悩みを抱えるようになりました。

当時、ボランティアの参加者は、団体よりも個人の方が圧倒的に多かったです。ところが個人参加者の場合、毎朝8時から始まる受付の大行列に並ばなければなりません。受付け後は注意事項の説明、作業現場の割り振り、移動して作業現場へ到着する頃には11時過ぎることが多かったです。更に、依頼者さんに事情を伺って作業を開始する頃には11時半になるため、20~30分だけ作業したら1時間の昼休みに入ります。「気を取り直して、午後は頑張ろう」と思っても、3時を過ぎると作業終了になります。参加者にとっては、朝の集合から夕方の解散まで8時間の時間を割いても、活動するのは実質2~3時間という計算になります。

活動後は、ボランティア同士の「午前は何もできませんでしたね」「作業時間より待ち時間の方が長かったですね」「待ち時間が長くて逆に疲れました」という、ため息交じりの会話を耳にすることも多かったです。

そこで、待ち時間の短縮による作業の効率化を狙い、個人ボランティアを集めて新しいボランティア団体を立ち上げる流れになりました。すると、その団体のリーダーとして、まだ数日の活動経験しかない私が、ふとしたキッカケから任命されてしましました。その瞬間、私はボランティアを “する側” から “させる側” の立場に変わりました。

ボランティア団体を立ち上げて新しい流れを作ったことで、「待ち時間が長い」という課題は解決できました。しかし、参加者の抱える不安やため息は、思ったほど減りませんでした。ボランティア参加者に活動後の感想を聞くと「素人の自分が貢献できるか不安だった」「私が現地の邪魔になっていないか心配だった」「被災者にどう接したらいいか分からず、声をかけれなかった」「自分の予想と違う作業で、不完全燃焼だった」など、反省点や後ろ向きな声ばかりを耳にしました。

そこで、参加者の声を聞きつつ私自身のことを振り返ってみると、あることに気付きました。参加者が抱く気持ちは、被災地に来た当初に私が抱いていた気持ちと、ほとんど同じ内容だと分かったんです。それならば、当時の私が周囲の人にしてほしかったことを、逆にしてあげようと思いました。

その翌日から、私の動き方が変わりました。

私は、ボランティアの人たちが宿泊しているテント村全体を見渡して、不安そうな人や最近来たばかりの人、困っていそうな人を見つけては、片っ端から声をかけていきました。すると最初は 「えっ?この人は誰?」 という顔をされます。しかし、二言三言会話をすれば、相手が抱えている心配事がだいたい分かるので、アドバイスして不安を解いてあげることで、すぐ打ち解けた関係になれました。

そして、被災地の現状やボランティアの活動内容、必要な持ち物、生活のノウハウなど、必要な情報を一通り教えてあげます。すると、同じ目的を持つ仲間だと分かってもらえるので、どんな人とでもすぐに友達になれました。そんな私の行動は “ボランティアナンパだね!” と、言われるようになりました。

その一方、被災した人たちからの作業依頼は非常に多かったです。被災者からの依頼内容(家屋の泥出し、家財の撤去など)が書かれた依頼書のことを “ニーズ表” と呼んでいます。1件のニーズ表に対しては、約20人が1日がかりで作業して、やっと終わるような作業量です。忙しかった時期は、未着手のニーズ表だけ数えても5000件以上たまっていたため、まさに “猫の手も借りたい” 状況でした。

2~3ヵ月が2~3日位に感じてしまうほど、毎日が “あっ” という間に過ぎる日々でした。気付くと、一日に500人や600人の参加者をコーディネイトする大きなボランティア団体になっていました。最初は皆、顔も名前も知らない人同士ですが、共通の目的のもとに集った人たちなので、初対面でも不思議なくらい、すぐに意気投合できました。

共通の目的さえあれば、最初は赤の他人だとしても、1分あれば友達になれて、5分あれば家族のような関係になれました。そこには、人種や国境・民族・言語・宗教の壁を、はるかに越えた文化がありました。ボランティア活動を続けるほど、家族がどんどん増えていくような感覚でした。

振り返ってみれば、2011年はあっという間の1年でした。2011年の “今年の漢字” を見てみると「災」「震」「波」が上位に入る中、1位に選ばれたのは「絆」でした。もし、私が被災地へ行かなかったとしたら、正直「絆なんてキレイごとだろ」と言っていたと思います。しかし、被災地でボランティアを経験した今なら、この言葉が大差をつけて1位に選ばれたのはすごく納得できます。今まで、万単位の作業ニーズに答えてきましたが、無事にやり遂げられたのは知識や技術ではなく、“絆” があったからだと実感しているからです。