トップランナーに見る可能性

東日本大震災の被災地の中で  “復興のトップランナー” と言われている地域が宮城県女川町です。復興の様子を、現地の人たちから聞きました。

2011年5月17日 女川町の様子

女川町は震災当時、約15mの津波に襲われました。建物は全体の9割以上が被災し、7割以上が全壊しました。人口は震災前と比べて3割以上減り、1割は犠牲になりました。          「東日本大震災の被災地の中で、建物の被災率・人口の減少率が最も高かったのが、この町でした。」

震災1カ月後、町の有力者たちが集会を持ち復興計画を練った際、責任者世代から提案がありました。            「私も含めた60代以上はサポート役にまわって、復興のやり方に口を出さないようにしよう。20~30年後に生きているか分からない我々は、口を出してもたかが知れている。最後まで責任を持てない。我々は “弾よけ” になって、若い世代に任せよう。」  「その後、町民約50名で設立した復興連絡協議会は、後々『民意の象徴』と呼ばれるようになり、復興の起点となりました。」

20代~70代まで幅広い世代の人、様々な業種の人が復興を始めた当初から携わり、行政と民間も協力しました。       「話し合いの場を持つと、年配者だけでなく若者も反論してくれるので、様々な意見が出て活気ある場になります。」    「民間の手が届かないところは行政が支援し、行政の手が届かないところは民間が行う形で一丸となって取り組みました。」

やがて、復興を担う若い世代は責任世代と呼ばれるようになり、“100年先の子供たちが誇れる町” を目指しました。   「被災自治体は巨大防潮堤を建設する地域が多い中、女川町は防潮堤を作らず、海と共に生きる方向性で復興計画を進めました。これは、他地域と比べて独自の道を進んでいるようにも見えましたが、やがて評価されるようになりました。」       「意思決定が早く、復興のスピードが速いということで  “復興のトップランナー” と呼ばれるようになりました。」

2015年6月14日 JR女川駅

「町づくりを象徴する場所」と言われる場所が、女川駅を中心とした駅前の商業エリアです。                震災4年後、女川駅が再建されて記念式典が開催されました。震災後に一部区間が不通となっていたJR石巻線(女川駅が終点)も、全線で運転を再開しました。                震災9年後、女川駅前の商業エリアが国土交通省の重点「道の駅」に選ばれました。県内では、大崎市に次いで2ヵ所目の選定です。

ある情報番組で被災各地の住民数千人にアンケート調査を行った際、「復興は進んでいると思いますか?」という質問に対して「進んでいると思う」と答える人の割合が高かった地域の一つ、それが女川町でした。

2019年8月30日 女川町の様子

漁師さん「被災した他の町よりも、復旧は進んでいる方じゃないかな。あれだけやられたにしては、頑張ってると思うよ」  

レストランの店主「新しい食を通して人々の集う場を作ることで、復興に役立てたいです」

町長さん「この町には、大きな可能性を感じています。NPO等による創業プログラムがたくさん生まれたし、会社の研修で訪れてくる人も多く、海外から学びにくる行政区長もいます。…(中略)… 人口減少率が全国で最も高いこの町は、他地域が同じように抱えるであろう課題を先取りした課題先進地です。しかし、裏を返せば  “可能性先進地” でもあるので、多くの可能性を示したいです」

復興のトップランナーと呼ばれる女川町は、様々な可能性を感じさせてくれる場所です。

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