“慣れ” は良いことか?

東日本大震災の被災地支援をきっかけに被災地へ移住した人から、ご自身が移住するきっかけになった話を聞きました。

東日本大震災から2週間後、私は物資支援が目的で被災地へ行きました。長期滞在すると現地にとっても迷惑だと思い、物資を現地へ届けたらすぐ帰るつもりでした。当時はまだ、物資がほとんど届かずに困っている地域もあると聞いていたため、被災地の中でも、より物資が不足していそうな地域へ向かいました。

現地へ到着すると、その光景の悲惨さに驚きました。最初はボランティアする予定は一切無かったのですが、地元の高齢の人たちが必死にがれきを片付ける様子を見たら「これは、手伝わなきゃいけない」と思い、軽い気持ちで手伝い始めました。すると、作業を始めて間もなく「ちょっと、そこのお兄さ〜ん。こっちも手伝って〜」と、誰かから呼ばれました。振り向くと、遠くにいるお母さんが私を呼んでいたので、小走りに行ってみると「お兄さん、あれを降ろしてくれない?」と言われました。お母さんが指差す方向を見ると、電柱の上に何かが引っかかっていました。最初は何か分からなかったので、電柱に近付いてよく見てみると、それは既に息絶えた “人” だったのです。それが分かった瞬間、私はすごく怖くなりました。お母さんからは「何とか降ろしてくれないかな?…お兄さん、力持ちでしょ?」と頼まれるのですが、私は足の震えが止まらなくなりました。それでも私は「何とか、この人の力になりたい」と思ったのですが、結局、その時はその場から一歩も動くことができませんでした。

これが、私にとって最初のボランティア活動でした。

その後、被災地における深刻な人手不足を痛感した私は、ボランティア活動を始めました。活動場所は、元々震災前から高齢化が進んでいたため “限界集落” と呼ばれていた地域を選びました。災害ボランティアセンターのサテライトを設置する話が出た際も、地元住民ではなく、よそ者の私がリーダーに任命されてしまうくらい、若い人(30~40代の働き盛り世代)が少ない地域でした。

それから数ヵ月が経過した、ある日の出来事です。

私が活動していた町で、被災した人たちを元気付けようと、よさこいのチームが公演に来てくれました。震災後は皆、慣れない避難所生活や自宅の泥出し、職場の再建などで忙しく、イベントや行事をやる雰囲気でもありませんでした。そのため、住民にとっては久しぶりの息抜きの場ということで、私も住民の方から誘われて、一緒に見に行きました。

会場へ着くと、よさこいのチームが舞台に立ち「皆さん、本日は私たちのよさこいを見に来てくれて、ありがとうございま〜す!」と挨拶をしていました。続いて、「最初にお見せするのは、皆さんもどこかで聞いたこがあるであろう曲、ソーラン節です!…では、始めます!」と、演目がスタートすると、会場が “待ってました” とばかりの盛り上がりを見せました。

すると、私も住民の方と一緒に盛り上がり始めた時です。急に後ろから、誰かに “トントン” と肩をたたかれて「申し訳ありませんが、ちょっと、こちらへ来ていただけますか?」と、小声で言われました。イベント会場を抜けて着いて行くと、自衛隊員の方がいて「お取込み中すいません。ちょっと、遺体の身元確認お願いします!」と頼まれました。数件対応すると「…以上です。ご協力に感謝いたします!」と言われて、私は再びイベント会場へ戻りました。すると、住民の方から「あれ?どこへ行ってたの?」「さっきは、かなり盛り上がってたんだよ。」と言われたので、「すいません。ついつい、トイレが長くなっちゃって…」とごまかして、何も無かったかのように住民の輪に入りました。

私は、あまりにも極端過ぎる環境の変化に不思議な感覚を覚えましたが、その変化にも、いつの間にか慣れてしまっていました。

この出来事は、私にとって非常に印象的でした。しかし、その出来事以上に印象的だったのが、私自身の心境の変化でした。最初は、ご遺体を前にするとカナヅチだった私が、気付いたら、当たり前のように遺体の身元確認をしていたのです。この出来事を通して “慣れること” のすごさを感じましたが、同時に恐ろしさも感じました。人は、継続する物事に対して “良くも悪くも” 慣れてしまうのだと痛感しました。

震災二ヶ月後、わざと罪を犯して捕まった自衛官のニュースが話題になりました。なぜ罪を犯したのか聞くと、「罪を犯して捕まれば、もう、被災地に行かなくて済むからだよ…」と答えたそうです。私はこのニュースを聞いた当初、なぜ自衛官がそこまでするのか全く理解できませんでした。しかし今なら、その気持ちも分かります。この自衛官はおそらく、私と同じことに慣れるのが嫌だったのだろう、と思いました。

一旦、物事に慣れてしまえば、そこから過度なストレスを感じることも無いので、楽ではあります。そう考えると、私の感じた慣れは、悪いことではないかもしれません。

しかし、決して良いことでもないように思いました。「この慣れは、他の人には味わってほしくない」と思ったことが、私が被災地へ移住する一つのキッカケになりました。

幸せとは何か?

2013年、東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で農業支援を行った際、依頼者のお母さんから聞いた話です。

あの日は、すごく揺れて驚きました。揺れが収まった後、私はすぐに家の外へ出て海を見ました。

すると、しばらくして海水が引き始めました。「ずいぶんと引くな〜」と思いながら見ていると、気付いたら30メートル位海水が引いて、海面自体が2〜3メートル位下がり、砂浜の広さが3倍くらいに拡がりました。私は今までの人生60年以上、ずっとこの地で海と共に暮らしてきましたが、あんな光景を見たは初めてだったの驚きました。

 依頼者の自宅から外に出た時の光景(2013/5/18)

それで、ただ事じゃないことが起こっていると感じ、「間違いなく津波が来る」「かつて無いくらいの大きな波が来る」「早く逃げなきゃ」と思いました。幸い、家の裏が高台になっていたので、避難はすぐにできました。その後、高台から海の沖の方を見ていると、まるで壁のような大きな津波が迫って来ました。やがて陸地に到達したかと思うと、私の家に津波が覆いかぶさりました。 …今までの普通の日常が、一瞬にして失われた瞬間でした。

    依頼者の自宅の庭から海側を見た時の光景(2013/5/18)

津波が引いた後は、一言で言えば “見る影もない” という状況でした。この辺りの山という山が津波によって海面から10m位の高さまでの新緑が削られて、はげ山のような光景になっていました。さらに、その山のふもとにあったはずの村や集落は流されてしまい、津波が引いた後は、ただの空き地のようになっていました。「あそこの村は、どこへ行ったの?」「住んでたみんなは、無事なの?」と、声にならない声次々とあふれてきました。初めてこの地に来た人が見たら、おそらく、村どころか、家があったことも分からないくらい、きれいに全部流されてしまい、何も無くなっていました。

地震と津波が去った後、地域の復興のためにたくさん働きました。たくさん苦労したし、たくさん悩んだし、たくさん傷付きました。そうこうしているうちに、半年が過ぎ、一年が過ぎ、気付いたら二年が過ぎていました。そして、この地域もある程度の落ち着きを取り戻した頃、ふとした疑問が湧いてきたのです。

「そう言えば、“幸せ”って何かしら…?」

心境を吐露される依頼者さん(2013/5/18)

震災前は、不満があるとすぐ文句を言ったり、些細なことでイライラしたり、ちょっとしたストレスをすぐ吐き出すのが日常茶飯事でした。そんな中で、“幸せを感じた瞬間” がいつだったのか考えてみると、“特別な出来事があった時” や “お金をかけて贅沢をした時” が思い起こされました。つまり、時々訪れる幸せのために、日々の日常生活を耐え忍んでいるようなイメージでした。あの頃の私は、平凡なことを繰り返すだけの毎日は飽きてしまい、どこか嫌になっていたのです。

しかし、震災で被災してからの2年間を過ごしながら、ずっと頭から離れなかった光景は何かといえば、家で家族と食事したり、テレビを見たり、畑仕事をしたりという、震災前の “普通の日常生活” でした。そこに気付いた時、何か特別な出来事のことを幸せと呼ぶわけではないのだと、私は悟ったのです。何気ない普段の日常、平凡な生活こそが、実は “一番の幸せ” だったのです。

今の私を客観的に見ると、震災前と比べて平凡で、苦労も多くて、特別感の無い生活を送っています。でも、明らかに震災前と比べて “幸せ” をより多く感じる生活になりました。普通の暮らしができること、それこそが有難いことであり、素晴らしいことだと、今では心から思っています。

ボランティアは双方向

東日本大震災で被災した人が、被災体験から得た教訓を教えてくれました。

震災当時、私は高校2年生で、宮城県南三陸町の沿岸地域(津波が約15m届いた地域)に自宅がありました。

東日本大震災が発生した3月11日、私は自宅の隣町にある集会所で部活の合宿中でした。2時46分、すごい揺れを感じました。幸いにも、集会所は高台に位置していたため津波は届かず、その場所自体が避難所にもなっていたため、私は自宅へはすぐ帰らず、状況が落ち着くまでは部活仲間と共に集会所で過ごすことにしました。翌日になると、私たちも含めて避難者が150名以上に増えました。一夜にして避難所となったその集会所で、私たち部活仲間は炊き出しや物資配布、避難所の運営など、ボランティアとして手伝いました。

震災から1週間後、私たち部活仲間はそれぞれの自宅へ帰りました。しかし、私が帰宅してみると、家があったはずのその場所には、建物らしき物が一切ありませんでした。地面は一面、泥とがれきでぐちゃぐちゃだったため、最初は自宅の敷地もどの場所か分かりませんでした。道路の形状、津波に流されずに残ったマンション、近隣の山々など、目印になりそうなものの位置関係を確認しながら「自宅があったのは、おそらくこの辺りの場所だろう」と推測しました。そこに散乱していたがれきを横にずらしてみると、その下には、辛うじて家の基礎部分が残っていました。そこで、家の敷地の端から、その基礎部分に沿ってゆっくり歩きながら「位置的には、ここが玄関かな?」「この場所は風呂場で、こちらがトイレかな?」と、独り言のようにつぶやきました。

後日の話になりますが、家族アルバムが1冊だけ見つかりました。自宅から車で10分走った先の山のふもとから見つかり、津波でここまで流されてきたのかと思うと、驚きました。

自宅跡地を一通り見た私は、近くの高台にある避難所へ行き、3週間過ごしました。そこで家族とも再開できたのですが、喜びもつかの間、私はすぐに避難所の運営ボランティアを手伝い始めました。当時は避難所も人手不足でしたし、何かしていた方が、気も紛れて良いと思いました。

震災1ヵ月後、私は内陸に位置する親戚の家へ引っ越したことで、生活環境が一気に変わりました。寝袋にくるまりながら数百人で雑魚寝をしていた避難所生活からガラリと変わり、静かな部屋のベッドで寝る普通の日常生活になったのです。当然、喜ばしいことなのですが、当時の私にとっては生活環境の変化があまりにも突然過ぎたため、そのギャップに違和感を感じ、しばらくの間は慣れませんでした。落ち着いた空間のはずなのに、どこか心は落ち着かず、しばらくは寝付くのに時間がかかりました。

その影響もあったのか、高校が再開するまでの期間(震災2ヵ月後まで)は、安全な親戚の家から被災現場の広がる避難所へ、ほぼ毎日のように通いながら、朝から晩までボランティア活動をしました。

しかし、その時の私は自宅や故郷、友人までも失って人生最大のストレスを抱えていたため、私のことを心配する両親からは、ボランティアを止められることが何度もありありました。「今日はボランティアはせず、家で休みなさい」と言われることは度々あり、時には「お前はそんなことしなくていいんだ!」と怒鳴られたこともあります。それでも私は、ボランティアを絶対に休まず、毎日続けました。避難所では、私以上に辛い思いをして苦しんでいる人が周囲に大勢いたので、そんな人たちを見ていると居ても立ってもいられず、気付いたら体が勝手に動いてました。

震災2ヵ月後(5月のGW後)、高校3年生の新学期が約1か月遅れでスタートしました。すると、学校へ通い始めたことがキッカケで、自分の気持ちも少しづつ落ち着きを取り戻して、ようやく普段の日常生活に戻っていけました。

その後、私は無事に高校を卒業して社会人になり、生活も落ち着きを取り戻しました。街の再建も進む中で、震災の痕跡は徐々に減ってきています。震災当時は無我夢中で分かりませんでしたが、後から改めて振り返ってみた時、気付いたことがあります。

震災当時の私が、なぜ、あそこまでボランティア活動にこだわっていたのか?それは、ボランティアで手助けした人たちが私に返してくれる ❝笑顔❞❝感謝の言葉❞ があったからでした。つまり、一見すると私がボランティアを する側 に見えていたのですが、気持ちの面では逆で、私がボランティアを される側 になっていたのだと分かりました。

この時の経験を通して、私はボランティアの捉え方が180度変わりました。以前は、ボランティアは一方通行、受ける側にのみメリットがある活動だと思っていました。しかし今は、ボランティアは双方向、授ける側にもメリットがある活動だと、私は思っています。

ボランティアする理由

東日本大震災の被災地で、長期的にボランティアをしている人から聞いた話です。この人の地元は関西で、個人的にボランティアへ参加していました。

私は、震災から1ヶ月後くらいの時期に被災地へ行きました。最初は、数日間だけボランティアをやるつもりで被災地へ行きましたが、いざ活動を始めてみると、気付いたら1ヶ月が経過していたので驚きました。「時間が経つのが早過ぎる」と思っている内に、2ヵ月が経過しました。

基本的に、ボランティアはかかる費用が全て自腹だったため、私の周囲では数日~1週間程度活動する人が多く、長い人でも1~2ヶ月でした。それ以上続けると、その後の自身の生活も危うくなってくるからです。

しかし、2ヵ月が経過しても、一向に被災者からの作業ニーズが減らず、むしろ増えているような状況だったため、私は「ここまで来たら、できる限り支援しよう」と思って活動を続けました。

すると、瞬く間に半年が経過しました。貯金もだいぶ減ってきていました。ここまで継続していると、周囲からも止められるようになりました。「もう、十分支援したと思いますよ」「これ以上続けたら無一文になっちゃいますよ?」「夢もあるんでしょ?」と、ボランティア仲間が気遣ってくれました。

更に、「おかげさまで、私たちは元気になったよ!」「そこまで自分を犠牲にしなくてもいいんですよ」「そろそろ、自分の夢に向かいなよ!」と、現地の人たちまで私が無理をしないようにと、気遣ってくれました。

しかし、私はまだ、終わるつもりはありませんでした。「自分の店(飲食店)を出そうと思って貯めた貯金があったから大丈夫ですよ」「仕事も正社員ではなく、飲食店で修業中の身だったので、すぐ辞めれて、都合が良かったんですよ」と、周囲に説明をしつつ、金銭的にはできるだけ節約しながら、活動を続けました。

震災から1年後、がれきの撤去作業はある程度落ち着いてきたため一つの節目の時期になったと思いました。貯金が底をついたこともあり、「そろそろ、帰り時かな」と思いました。後ろ髪引かれる思いもありましたが、地元へ帰ることにしました。

周囲からは、「ボランティアの域を超えてますよ」「赤の他人のために、なぜそこまで自分を犠牲にするんですか?」と、よく聞かれました。私の個人的な野望や思想を聞かれるのですが、そういった格好のつく理由は、私には特に無かったんです。しいて、何か挙げるとすれば「困ってる人を助けたい」くらいしかなかったですね。

思い起こせばあの日 (2011年3月11日)、私の地元である兵庫はほとんど揺れず、被害は特にありませんでした。友人たちと話す時は大抵、震災の話題が出たのですが、「被害が悲惨過ぎたせいか、逆に実感が持てないね」「you tubeの被害映像を見ても、まるでSF映画を見ているよう」と、どこか他人事のような会話が多かったです。でも、私の場合は、震災直後から東北のことが気がかりで、何をする時も頭から離れませんでした。というのも、私は1995年の阪神淡路大震災で被災した経験があります。当時高校生だった私は、自宅で被災しました。あの時、肌で感じた大きな揺れや地元の悲惨な光景は、震災から15年以上が経過した今でも、ハッキリ覚えています。あの時、心が幼かった私は地元のために何も貢献できず、自分の無力さを悔しく思いました。そこで、今回は少しでも支援しようと思いました。

ボランティア活動をしながら、様々なボランティアさんと話していると、ボランティアする理由や、自分のボランティア論を語る人も結構います。でも、長々とあれこれ語る人ほど、逆に嘘っぽく聞こえる気がするんです。もし、被災したのが自分の友人や家族だとしたら、誰だって、長々とした理由が無くてもすぐ助けに行くと思うんです。だから、ボランティアする理由はもっと単純で、シンプルでいいのではないかと、私は思っています。

笑顔の力

東日本大震災で被災されたお母さんから話を聞きました。ご自宅は2階建てで、1階部分が店舗、2階部分が住居でした。

震災当時、私は自宅にいました。2階の住居は大丈夫だったのですが、1階の酒屋は天井まで津波に浸かってしまいました。店内は一面泥だらけで商品も全て流されてしまい、津波が引いた後は見る影もありませんでした。当然、営業再開も厳しい状況だったので、主人といろいろ相談した末に、閉店する方向性で話が落ち着きました。

しかし、主人にとってこの店は単なる仕事ではなく、趣味であり、楽しみでもあり、生きがいだったんです。だから、閉店を決めてから主人はすっかり元気を無くしちゃいました。何に対してもヤル気が出なくなり、笑顔も少なくなり、やがて鬱になってしまったんです。更に、あまりにも動かなくなったので、体もどんどん太っていきました。

私は心配になったため、主人には専門の人からのカウンセリングを受けてもらいました。でも、主人の場合は鬱の原因が精神的なものではなく、具体的なもの(お店の閉店)でした。例えカウンセリングを受けたところで、原因が解決に向かうわけでもなかったので、鬱の症状は改善しませんでした。

一方で、市による街の再開発計画もなかなか提示されませんでした。お店の場所は河川の側だったため、場合によっては「再開発工事に影響する場合、強制退去になる可能性もあります」と聞いていました。そのため、この場所(店舗兼自宅)は取り壊されるのか?引越し先はどうするか?仕事はどうするか?悩み事は絶えませんでした。

結局「強制退去の話は無くなりました」と明確になったのは、悩み始めてから1年が過ぎた頃でした。引っ越す必要はないと分かってホッとした反面、あまりにも悩み過ぎたせいか、私自身も精神的に疲れてしまい、今更「希望を持って頑張ろう」という気持ちにはなれませんでした。

そんな時、心配して様子を見に来てくれたボランティアリーダーの方と、このお店の事情を共有しました。すると「私たちで良ければ、できる限りお手伝いしますよ」という話が出て、既に諦めていた私は驚きました。そして、あるボランティアさんからかけられた言葉が印象的でした。

「俺、やってやりますよ!」

その言葉を聞いて、私も心が動きました。店を再開できるかは分かりませんでしたが、「できる限りやってみたい」という気持ちが芽生えたんです。

そこからは、ボランティアさんが継続的に支援で来てくれました。顔も名前も知らない私たちのために、朝早くから店に来て、汗を流しながら作業しても嫌な顔一つせず、作業中に顔が汚れちゃっても、夕方になると笑顔を残して帰って行きました。店内の隅々まで泥汚れを取ったり、天上の柱も一本一本磨いたり、汚れがこびり付いた箇所を洗浄したり…など。1日や2日で終わるはずは無く、1週間、1ヶ月と継続してくれました。おそらく、業者でなくてもできることは、一通りやってくれたと思います。

そんなボランティアさんの明るい笑顔に毎日のように触れながら、主人は徐々に笑顔を見せるようになってきました。また、ボランティアさんが必死に尽くしてくれる姿に刺激されて、片付けも徐々に手伝うようになっていくのを見ながら、主人の鬱の症状が徐々に改善していくのが分かりました。

店内がどんどんきれいになっていくのを見ながら「これなら、頑張ればお店を再開できるかもしれない」と思った私は、ある日、主人に相談しました。すると、主人も希望を持ち始めて、見違えるように元気を取り戻していきました。更に、体もどんどん動かすようになったことで、太っていた体も徐々に引き締まり、震災前の健康そうな体つきに戻りました。主人の劇的な体型の変化は、ボランティアさんからも驚かれるほどでした。

数ヵ月後、お店は無事に営業を再開しました。震災前と比べると、商品の数は少なくなり、客足も減りました。でも、お店を営業していること自体が、主人にとっての幸せなんです。そんな主人を見ながら、私自身も嬉しくなりました。振り返ってみれば、ボランティアさんの “笑顔” に触れたことがキッカケで、主人は鬱が治りましたし、私自身も救われました。

震災直後は、お店の営業再開なんて叶わぬ夢、私たち夫婦にとっては大き過ぎる夢でした。でもボランティアさんが力を貸してくれたからこそ、叶えることができました。そのため今は、“お店を続けること”“主人の笑顔が続くこと” という、新しい夢が見つかりました。今度目指すのは小さい夢ですが、他人の力は借りずに、私たち夫婦の力だけで叶えたいと思っています。

5分あれば家族になれる

ボランティア団体のリーダーから聞いた話です。最初は、一個人のボランティアとして被災地を訪れましたが、その後、ボランティア団体のリーダーになって被災地へ大きく貢献された人です。

2011年4月上旬、個人ボランティアとして東日本大震災の被災地を訪れました。私自身がボランティア初心者ということもあり、最初は分からないことだらけで不安も多い中でしたが、周囲で活動する人たちを見よう見まねでボランティアを始めました。すると、活動を始めて間もなく、私を含む多くのボランティアは「待ち時間が長い」という共通の悩みを抱えるようになりました。

当時、ボランティアの参加者は、団体よりも個人の方が圧倒的に多かったです。ところが個人参加者の場合、毎朝8時から始まる受付の大行列に並ばなければなりません。受付け後は注意事項の説明、作業現場の割り振り、移動して作業現場へ到着する頃には11時過ぎることが多かったです。更に、依頼者さんに事情を伺って作業を開始する頃には11時半になるため、20~30分だけ作業したら1時間の昼休みに入ります。「気を取り直して、午後は頑張ろう」と思っても、3時を過ぎると作業終了になります。参加者にとっては、朝の集合から夕方の解散まで8時間の時間を割いても、活動するのは実質2~3時間という計算になります。

活動後は、ボランティア同士の「午前は何もできませんでしたね」「作業時間より待ち時間の方が長かったですね」「待ち時間が長くて逆に疲れました」という、ため息交じりの会話を耳にすることも多かったです。

そこで、待ち時間の短縮による作業の効率化を狙い、個人ボランティアを集めて新しいボランティア団体を立ち上げる流れになりました。すると、その団体のリーダーとして、まだ数日の活動経験しかない私が、ふとしたキッカケから任命されてしましました。その瞬間、私はボランティアを “する側” から “させる側” の立場に変わりました。

ボランティア団体を立ち上げて新しい流れを作ったことで、「待ち時間が長い」という課題は解決できました。しかし、参加者の抱える不安やため息は、思ったほど減りませんでした。ボランティア参加者に活動後の感想を聞くと「素人の自分が貢献できるか不安だった」「私が現地の邪魔になっていないか心配だった」「被災者にどう接したらいいか分からず、声をかけれなかった」「自分の予想と違う作業で、不完全燃焼だった」など、反省点や後ろ向きな声ばかりを耳にしました。

そこで、参加者の声を聞きつつ私自身のことを振り返ってみると、あることに気付きました。参加者が抱く気持ちは、被災地に来た当初に私が抱いていた気持ちと、ほとんど同じ内容だと分かったんです。それならば、当時の私が周囲の人にしてほしかったことを、逆にしてあげようと思いました。

その翌日から、私の動き方が変わりました。

私は、ボランティアの人たちが宿泊しているテント村全体を見渡して、不安そうな人や最近来たばかりの人、困っていそうな人を見つけては、片っ端から声をかけていきました。すると最初は 「えっ?この人は誰?」 という顔をされます。しかし、二言三言会話をすれば、相手が抱えている心配事がだいたい分かるので、アドバイスして不安を解いてあげることで、すぐ打ち解けた関係になれました。

そして、被災地の現状やボランティアの活動内容、必要な持ち物、生活のノウハウなど、必要な情報を一通り教えてあげます。すると、同じ目的を持つ仲間だと分かってもらえるので、どんな人とでもすぐに友達になれました。そんな私の行動は “ボランティアナンパだね!” と、言われるようになりました。

その一方、被災した人たちからの作業依頼は非常に多かったです。被災者からの依頼内容(家屋の泥出し、家財の撤去など)が書かれた依頼書のことを “ニーズ表” と呼んでいます。1件のニーズ表に対しては、約20人が1日がかりで作業して、やっと終わるような作業量です。忙しかった時期は、未着手のニーズ表だけ数えても5000件以上たまっていたため、まさに “猫の手も借りたい” 状況でした。

2~3ヵ月が2~3日位に感じてしまうほど、毎日が “あっ” という間に過ぎる日々でした。気付くと、一日に500人や600人の参加者をコーディネイトする大きなボランティア団体になっていました。最初は皆、顔も名前も知らない人同士ですが、共通の目的のもとに集った人たちなので、初対面でも不思議なくらい、すぐに意気投合できました。

共通の目的さえあれば、最初は赤の他人だとしても、1分あれば友達になれて、5分あれば家族のような関係になれました。そこには、人種や国境・民族・言語・宗教の壁を、はるかに越えた文化がありました。ボランティア活動を続けるほど、家族がどんどん増えていくような感覚でした。

振り返ってみれば、2011年はあっという間の1年でした。2011年の “今年の漢字” を見てみると「災」「震」「波」が上位に入る中、1位に選ばれたのは「絆」でした。もし、私が被災地へ行かなかったとしたら、正直「絆なんてキレイごとだろ」と言っていたと思います。しかし、被災地でボランティアを経験した今なら、この言葉が大差をつけて1位に選ばれたのはすごく納得できます。今まで、万単位の作業ニーズに答えてきましたが、無事にやり遂げられたのは知識や技術ではなく、“絆” があったからだと実感しているからです。

取り戻した信仰

浄土真宗の信仰を持つ人から聞いた話です。東日本大震災で被災した際、一度は信仰生活を送れなくなった経験をお持ちでした。

2011年3月11日の午後、いつもと変わらぬ日常を過ごす中で突然、東日本大震災が発生しました。その時私は、家族と一緒に沿岸地域の自宅にいました。近隣住民が避難するのを横目に見ながら、私は母が高齢で体が不自由だったので、母を車に乗せて一緒に避難しようと、必要な荷物を準備していました。

すると突然、何の前触れも無く突然、津波が家の敷地内に流れ込んで来ました。車へ荷物を積んでいた私は、津波の力で荷物と共に家の中へ押し戻されてしまい、母と一緒に自宅の中で被災を経験しました。津波が家の中一面に広がったかと思うと、あっという間に一面がプールの状態になりました。私と母は、押し寄せる津波とガレキによって玄関などが塞がれ、自宅内に閉じ込められてしまい、津波が引くまでは外へも出れなくなりました。

水の勢いは一向に収まらず、家の中の水位は床上1mを越えても上昇が続き、1.5mを越えると足が地面に付かなくなりました。母は泳ぐことができなかったので、私が母を抱きかかえながら立ち泳ぎしました。水位が2mを越えると、地面よりも天上の方が近くなってきました。自宅は平屋の一階建てだったため、高所へ逃げることもできませんでした。私は仏様の前に必死に祈りましたが、水位の上昇は続きました。

やがて私と母は、上昇する水面と天井の間で挟まれた状態になり、手を伸ばせば天井に届きました。私は「もう、ダメかもしれない」と思いつつも、仏様へ「助けてください」と必死に祈り続けました。ついに、水位は天井の一番高い場所とほぼ同じ高さまで来ました。空気の層がほとんど無くなり、顔を天井に押し付けなければ呼吸もできなくなりました。仏様へ祈り続けながらも、私は心の中で家族に対する別れを告げて、覚悟を決めました。

すると、水位の上昇が “ピタッ” と止まったような気がしました。しばらく経つと、天上に顔を押し付けなくても呼吸できるようになってきたため、水位が若干下がったのが分かり「何とか命拾いした…」と思いました。もし、水位があと5cm上昇していたとしたら、家の天井と津波の間にあった空気の層が無くなり、私自身も間違いなくあの世行きでした。

一方、家の隙間から外の様子を見ると大粒の雪が降っていました。時期としては3月でしたが、気温や水温は真冬並みに低く、体力がどんどん奪われました。手や足の指先の感覚が徐々になくなっていく中、私は何とか耐えていましたが、私が抱きかかえた母の方は、徐々に衰弱していくのが分かりました。やがて、母は自分の死期を悟ったように「今までありがとね…」と感謝の言葉をかけてきたので、私は必死に祈りながら、母に対しても声をかけ続けました。しかし、母は「あとは頼んだよ…あとは頼んだよ…」と何度も言いながら、私の腕の中で息を引き取りました。

一晩が過ぎて翌朝、ようやく水位が腰位まで下がったので、地に足を付いて歩き回れるようになりました。この1日で、私は母を含めた家族3人を亡くしました。あまりにも突然過ぎる出来事だったため、最初は全く実感が持てませんでした。その後、遠方に住む親戚へ連絡したり、パンク寸前だった火葬場で何とか受け入れてもらったり、家族の遺品を整理したり… 事が進む中で、家族を亡くした実感が徐々に湧いてきました。しかし同時に、やり場のない恨みや悔しさが溢れてきました。その思いはやがて「大切な家族をどうして3人も奪ったんですか」と、仏様にも向きました。それまで毎日唱えていたお経も、震災後は一切唱えられなくなりました。長年続けた信仰生活でしたが、この時ばかりは、やめようかと考えました。

その一方で復旧作業は、被災した自宅の泥出しや片付け、リフォーム、引越しなどで町中が毎日バタバタしていました。その反動もあってか、自身の身の回りが片付くと気持ちも落ち着いてしまい、家から出てこなくなる人が多かったです。その気持ちは、私もよく分かります。しかし、公園の泥出しや集会所の片付け、共同墓地の掃除など、本来は町内の住民が協力してやるべきことに対しては、声を掛けても人が集まらず、片付けが進みませんでした。そのため、町内の子供たちが「外で遊びたい」と言っても、公園はガレキが残ったままで遊べず、かわいそうな状態が続きました。また、亡くなった家族のお葬式をしようとしても、お墓が泥だらけで汚かったので、供養も満足にできませんでした。

そんな状況の中、積極的に手伝ってくれたのがボランティアさんでした。特に、UPeaceさんのような宗教ボランティアの方たちは、一般のボランティアさんが来なくなった後も、この町の支援をずっと続けてくれて本当に助かりました。そんなある日、いつものようにUPeaceさんが活動している姿を見ながら、まるで、その背後にいる仏様から助けてもらっているような、そんな感じがしたんです。

震災後、私は最初 “仏様は私の普段の行いを見て、罰を与えようと家族を奪った” と思っていました。でも、神様・仏様のことを信じているUPeaceさんのような宗教ボランティアの方たちから何度も助けられることを通して、“仏様は、私のことをずっと助けようとしていた” のかもしれないと、少しづつ思うようになってきたんです。時間がかかりましたが、ようやくまた、お経を唱えることができるようになりました。仏様に対する私の恨みが、解けてきたからだと思います。

震災から5年以上が過ぎても、あの日の出来事は、まるで昨日のことのように思い出されます。おそらく、一生忘れることは無いと思います。でも、それを根に持ちながら生活しても、家族が戻ってくるわけではありません。なので、私自身が世のため、人のために真っ当な人生を送ることで、少しでも供養につながればと思っています。

私の人生の分岐点

ボランティア団体のリーダーから聞いた、ご自身が災害支援に携わることになったキッカケの話です。

東日本大震災の発災当時、私は東京に住んでいました。東北地方には行ったことも無く、知り合いもいなかったので、私にとっては縁のない地域でした。そのため最初は、災害支援のことで現地と関わる気は全くありませんでした。

しかし、震災関連のニュースや新聞を見ながら、少しづつ、被災地のことが気になり始めて “自分は何もしなくていいのだろうか?” という声が、耳元でささやくようになりました。やがて、震災のことが頭の片隅から離れなくなり、休日でも気持ちが休まらなくなってきて、「ここまで気になったら、一度、現地へ行かなきゃだめだな」と思うようになりました。

そこである日、「自分、被災地へ行ってくるから!」 と家族に伝えて、友人や仕事仲間、営業先の顧客など、話さなくてもいいような人にまで同じ話をしました。すると、周りの人たちは嫌な顔もせず応援してくれて、支援物資を集めてくれる人もいました。当時の私は、いろんな人に話すことを通して、自分自身の中で被災地へ行く気持ちを固めていたように思います。

しかし、被災地へ行く準備が進めば進むほど、不安が大きくなりました。当時は被災直後で、震度5や6の余震で津波警報が鳴ることが何度もあり、原発事故の影響で危険だと言う人も周りにいました。現地で生活環境も十分には分からなかったため 「…今回は、やっぱりやめておこう」 と躊躇しました。

そんな時、一旦落ち着いて自分の周囲を見渡してみました。そこにあったのは、被災地へ行く準備万全の車、知人に頼んで集めてもらった支援物資、集まった募金、私を応援してくれる家族や親友からのメッセージなどでした。これらを見ながら 「もう、後戻りするのはやめよう」 と、私自身の中で何かが吹っ切れた気がしました。

出発当日になりました。少なからず不安もありましたが、それ以上に不思議な感覚がありました。言葉ではうまく表現できませんが、「自分の意志で行くことを決めて出発した」 という感覚ではなく、「自分とは違う誰かから、目に見えない力で背中を “ポン” と押されるように出発した」 という感覚でした。

車で現地へ向かう道中、移動時間は普段の倍くらいかかりました。というのも、高速道路が震災の影響で、時速50km制限や70km制限の場所が多く、現地に着くまで10時間以上かかりました。最初は音楽を聞いてましたが、さすがに飽きてしまい、途中からはいろんなことを考えました。「自分は縁もゆかりも無い地域のために、なぜ、こんなにも頑張っているのだろう?」と、今更ながら考えました。でも、私の中からは納得のいく理由が出ませんでした。結局、「自分のことを呼んでいる誰かがいて、その誰かの期待に応えようとして頑張っている」と考えるのが、一番しっくりきました。こういう感覚を “第六感” とか、宗教を持つ人にとっては “神の導き” とか言うのだろうと思いました。

震災から1ヶ月も経たない4月初め、私は被災地に到着して災害ボランティアをスタートしました。その後も様々な紆余曲折がありましたが、今ではもう、私はここ (東北) の住民になっています。

震災前、私が思い描いていた将来像の中では “東北地方に住む” なんて夢にも思いませんでした。でも結果的には、ここへ来たことで人生が良い方向へガラッと変わりました。今では、ここへ来て本当に良かったと思っています。

振り返ってみれば、震災当時に “被災地へ行こう” という選択をしたことが、自分の人生にとって一番の大きな分岐点になりました。あの時のような、目に見えない不思議な力を感じた時は、その力に委ねて行動してみることも大切だと、今は思っています。

私が生き残った意味

東日本大震災で被災した人から聞いた話です。震災当時は60歳で、仕事を定年退職されたばかりの方でした。

あの日、私は自宅で被災しました。地震が収まった後、私はすぐに保育園にいた孫を迎えに行きました。自宅へ戻り、残っている家族を連れて避難所へ行こうと荷物を準備していた時、津波に襲われました。津波の圧倒的な力に成すすべなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で必死にもがきました。他の部屋にいる妻や孫が気がかりでしたが、助けに行く余裕はありませんでした。

何時間が経過したか分かりませんが、津波の勢いは落ち着いて、静かなプールのような状態になったのが分かると、私はすぐに家族を探しました。その時はもう夜中で視界は悪かったですが、流されたであろう場所を探し回っていると、息を引き取った妻を見つけました。

しかし、引き上げようとすると上手くいきません。妻の左手が何かに引っ掛かっているようでした。妻の左手の先をよく見てみると、左手で何かを必死に掴んでいるように見えました。そこで、妻の左手の先にあったがれきを片付けてみると、そこには息を引き取った孫の姿がありました。妻の左手は、孫の手をしっかり掴んでいたんですよ。その光景を見ながら「おまえは、命を落とした後もずっと孫を守り続けてくれたんだな…」と、込みあげてくる想いがありました。でも、不思議と涙は出ませんでした。もう、あまりにも悲し過ぎたからか、不思議と涙は全く出なかったです。人間は、本当に悲しくなると涙も出なくなるんだな…と、思いました。

その後、孫が通っていた保育園の園児たちは「先生に連れられて避難したおかげで、皆助かりました」と聞きました。それを聞いた私は「私が孫を保育園へ迎えに行かなければ、孫は死なずに済んだんだ」「どうして迎えに行ってしまったんだ?」「孫を殺したのは私だ」「私なんかが、なぜ生き残ったんだ?」と何千回、何万回悔やんだか分かりません。

震災直後は、何に対してもやる気が出ませんでした。出てくる想いは後悔しかなかったです。しかし、1~2ヶ月くらい経った頃、転機がありました。

ある日、被災した街中で、ある光景を目にしました。私が車で街中を走りながら赤信号で止まった時、ふと道路脇の歩道を見ました。すると、がれきが散乱する中、足元に気をつけながら街中を歩いている母親と子供の姿が目に入りました。お母さんに手を引かれる子供が元気そうに、でもちょっと不安そうな表情で歩いていました。その光景を見た時、手を引かれて歩く子の姿が、まるで自分の孫のように見えたんです。もし、自分の孫が生きていたとしたら、この子のように、不安でいっぱいな日々を送っていただろうな…と思ったんです。その時「こういう子供のために、何かしたいな…」という気持ちが芽生えたんです。

それ以降、外出する時は自然と子供に気を配るようになりました。すると皆、何かしらの不安を抱えていそうで、どこか辛そうな表情をしているように見えました。そして、私は徐々に「孫にしてあげれなかったことを、こういう子供たちにしてあげれないものか?」「こんな自分でも、助けになれるんじゃないか?」と、少しづつ前向きなことも考えるようになりました。

この頃は、まだ仮設住宅ができる前でした。避難所では人が溢れて大変なのに、住む場所自体が探しても見つからず、困っている人が多かった時期です。そこで、私はいろいろと考え抜いた末に、当時自分が所有していた15件ほどの貸家をリフォームして、格安で貸してあげることにしました。

しかし、一口にリフォームと言っても簡単ではありませんでした。貸家も全て屋根の高さまで津波で被災していたため、被害が小さかった家でも1ヶ月程、全ての家のリフォームが終わるまでは1年近くかかりましたが、何とか形になりました。件数は限られていたため、小さな子供をもつ母親や生活に困っていそうな家族を優先的に入れました。

入居の際に挨拶に行くと、いろんな家庭がいました。入居する家が早く見つかったことに感動して、家族皆が泣きながら挨拶した家庭。入居できたことがあまりにも嬉しくて、手が痛くなるくらい固い握手を交わしてきた家庭。入居できた安心感で緊張の糸がゆるんだのか、号泣する家庭もいました。いずれにしても、皆さん喜んでくれました。その姿を見ながら「私が生き残った意味は、これかもしれない」と思ったんです。

仕事も定年を迎えて、ちょうど自由な時間が増えたところです。私は元々、定年後は自分の好きに生きようと思っていました。でも今は、もう少し世のため人のために生きて、天国にいる妻や孫に見られても、恥ずかしくない人生にしたいです。

夫婦の約束

東日本大震災の被災地域で、焼きそば屋さんの店長さんから話を聞きました。震災当時は、石巻市内の沿岸地域で中華料理店(店舗兼自宅)を、夫婦二人で切り盛りしていました。

震災の時は、お店の営業時間中でした。お客さんを避難させるまでは良かったのですが、私自身が逃げようとした時、津波にのまれちゃったんですよ。“あっ”という間に体を持って行かれました。この町を襲った津波は7mだったようです。何とか水面に顔を出して、流れてきた柱や家の屋根につかまりました。さすがにあの時は『俺はもう死ぬんだな…』と思いましたね。どのくらい流されたか分かりませんが、何とか助かったんです。

急いで高台の上へ移動して『何とか助かったか…』と思いましたが、その時既に、妻の姿はどこにも見えませんでした。辺りを探しても見当たらず、私は海へ戻って妻を探そうと思いましたが、お腹が痛み出して苦しくなりました(当時は、津波の水を飲んでお腹を痛めただけだと思っていましたが、後で病院へ行ったら肋骨が三本折れていました)。更に、工場から漏れた油が何かに引火したのか、津波の上が一面火の海になって近付けなくなり、結局妻を探し回ることができませんでした。

津波が引いた後、自分の店を見に行きました。すると、津波でほとんどの物が流された上に、火災になって店全体が真っ黒こげになり、店そのものが原形を留めていませんでした。結局、この場所で津波にのまれる直前に聞いた「お父さん、津波が来たど〜」が、妻の最後の声でした。妻は、未だに見つかっていません。

震災から10日後位に店を片付けていた時、がれきの中からヘラ(焼きそばを作る時に使う調理器具)が二枚出てきたんです。他の調理器具は、火災のせいで全て真っ黒焦げになっていたにも関わらず、不思議と、この二枚のヘラだけは全く焦げておらず、きれいな状態で見つかりました。しかも、そのヘラをよく見たら、私のではなく、妻の愛用のヘラだったんです。そこに気付いた時は、まるで妻から励まされているような感じがしました。そのヘラを見た娘からは「お母さんが、また焼きそばを作れって言ってるんじゃない?」と言われました。そこで、震災前に妻と交わしていた、ある “約束” を思い出したんです。

「これからの二人の人生で、どんな困難があっても、辛いこと、嫌なことがあっても、焼きそば屋さんだけは絶対に続けよう。おいしい焼きそばを通して、日本中の人たちを笑顔にしようね!」

過去を振り返りながら、下を向いてるヒマは無いと思いました。震災後、この町の人たちは皆、顔から笑顔が消えていました。おいしい焼きそばを食べて、もう一度笑顔を取り戻してもらいたかったです。

そんな時に「B-1グランプリに出てみないか?」というお誘いがありました。以前から妻とも「参加してみたいね~」と話してたのを思い出して『よ〜し、やってやるか!』と、少しづつですが、前に進む力が湧いてきました。

2011年11月に開催されたB-1グランプリに出店しました。全国から集まって来るたくさんの来場者たちが、「宮城県から来た」というだけですごく応援してくれて、私自身も驚きました。   (第6回 B-1グランプリは2日間で50万人以上が来場し、60団体以上が参加する中で、店長の焼きそば屋は6位に入賞した。)

この頃私は、自分の中でも “一つのけじめ” をつけなきゃならないと思っていました。そこで、妻はまだ行方不明でしたが、B-1グランプリの翌月には葬儀をあげたんです。普通に考えたら、行方不明者の葬儀をするって変じゃないですか、本当に死んだのか分からないわけですから。でも、今回の震災は被害が大き過ぎたから、自衛隊の捜索活動が全て終了した後も行方不明者数は多いままで、私の近所でも行方不明者の葬儀をする人は多かったです。(2020年1月時点で、宮城県内の行方不明者は1200人以上)

その後、資金を貯めてキッチンカーを購入して改造し、2012年7月に焼きそば屋を再開しました。今度は移動販売車にしたから、地元に限らず、どこへでも出張販売できるようになりましたよ。

石巻焼きそばは、この辺り(石巻市近隣)だとみんな知ってるけど、県外は知らない人が多いじゃないですか。特に、店を再開した当初は、関東や関西のイベントやお祭り会場へ行くと「“石巻焼きそば” って…何ですか?」という反応が多かったですよ。でも、“珍しい名前” と “被災地から来た” というのが相まってか、関心を持ってくれる人がすごく多くて、嬉しかったですね。

元気付けようと思って現地へ行ったつもりが、逆に元気付けられて帰って来るような日もありました。でも、それだと妻との約束は守れないので、これからは笑顔をもらう以上に、届ける側になりたいと思っています。

震災直後の大変だった時期に応援してくれた全国の皆さんには本当に感謝してるので、“焼きそば” を通して少しでも恩返しできればと思っています。私にとっては、まだまだこれからです。

守ってみせますよ、妻と交わした約束だからね。