ボランティアの価値観が変化

東日本大震災で被災した人が、被災体験から得た教訓を教えてくれました。

〔震災当日~1週間後〕

2011年3月、私は高校2年生で沿岸地域(津波が約15m届いた地域)に自宅がありました。

震災当日、私は部活の関係で自宅の隣町にある合宿所にいて被災しました。幸いにも、その場所は高台だったため津波は届かず、その合宿所自体が避難所にもなったため、自宅にはすぐ帰らず、状況が落ち着くまで合宿所で過ごすことにしました。翌日になると、私たちも含めて避難者が150名以上に増えました。合宿所での避難生活は約1週間続き、その後自宅へ帰りました。

〔1週間後~1ヵ月後〕

震災1週間後、自宅へ帰ってみると、津波で全て流されて跡形も残っていませんでした。最初は、あまりにも何も無かったので、どこが自宅の場所か分かりませんでした。周囲の目印になりそうなものを探した結果、近隣の道路の形や残ったマンションとの位置関係から、おそらく自宅はこの場所で間違いないだろう…と、予測するしかありませんでした。唯一残っていた家の基礎部分を見ながら「位置的には、ここがうちの玄関かな?」「この場所が風呂場かな?」と、独り言のように話しました。

後日、家族アルバムが1冊だけ見つかりました。自宅から車で10分走った先の山のふもとから見つかり、津波でここまで流されてきたのかと思うと驚きました。

自宅が無くなったため、近くの高台にあった避難所で数週間過ごしました。そこで家族とも再開できたのですが、喜びもつかの間、私はすぐに避難所運営のボランティアを始めました。当時は避難所も人手不足だったし、何かしていた方が、気も紛れて良いと思っていました。

〔1ヵ月後~2ヵ月後〕

震災1ヵ月後、自宅から車で30分の内陸に位置する親戚の家へ引っ越したことで環境が一気に変わりました。それまでの避難所生活からガラリと変わり、普通の日常生活になったのです。生活環境の変化があまりにも突然過ぎたため、そのギャップにしばらく慣れませんでした。

結局、高校が再開するまでの期間は、親戚の家から避難所へほぼ毎日のように通って朝から晩までボランティアをしました。しかし、その時の私は自宅や故郷、友人までも失って人生最大のストレスを抱えていました。そんな私に対して両親からは、何度も「休みなさい」と言われ「お前はそんなことしなくていいんだ」と怒鳴られたこともあります。それでも、私は絶対に休みませんでした。避難所では、私以上に辛い思いをして苦しんでいる人が周囲に大勢いたので、そんな人たちを見ていると居ても立ってもいられず、気付いたら体が勝手に動いてました。

〔2ヵ月後~〕

震災2ヵ月後(5月のGW後)、高校3年生の新学期が遅れてスタートしました。すると、学校へ通い始めたことがキッカケで、自分の気持ちが少しづつ落ち着きを取り戻し、普段の日常生活に戻っていけました。

〔7年後〕

震災7年後(現在)、私自身は社会人になって生活も落ち着き、震災がれきも無くなって街の再建が進んでいます。震災当時は無我夢中で分かりませんでしたが、今改めて振り返ってみるて気付くことがあります。

震災当時の私が、あそこまでボランティア活動にこだわっていたのはなぜか。それは、ボランティアで手助けした人たちが私に返してくれる ❝笑顔❞❝感謝の言葉❞ があったからなんです。  一見すると、私がボランティア している ように見えたのですが、気持ちの面では逆で、私がボランティア されていた んですね。

〔変化した価値観〕

震災後の様々な経験を通して、私はボランティアに対する価値観が180度変わりました。以前の私は、ボランティアは一方通行、受ける側にメリットがある活動だと思っていました。しかし今の私は、ボランティアは双方向、授ける側にもメリットがある活動だと思います。

 

街を活気付ける ”鍵” とは?

2018年11月、被災地沿岸部の街で復興関連の仕事をしている人から聞いた話を紹介します。


震災当時、この街には約15mの津波が押し寄せて街の中心部を飲み込みました。あれから7年半、津波が到達した沿岸部では街の再開発が進みました。沿岸部では堤防が作られ、自宅を無くした人たちは高台へ集団移転し、公園や商店街も作られて新しい街に変わりつつあります。しかし一歩街の中に入ると、震災前と比べて人口が減り、若者の割合も減ったのが相まって活気がなくなり、住民の中でも「隣近所に住んでるのは誰だっけ?」と言う人が増えています。

この状況を見た他地域の人からは、こんな話をよく耳にします。「街並みはきれいですが、ちょっと静かで寂しい感じがします。地域コミュニティを作って、街を活気付けたらどうでしょう?」しかし、これが簡単ではありません。今回自宅を無くした人たちは既に、以下の状況でコミュニティが壊れた経験をしています…

●1回目                            今まで生活してきた自宅を失い、避難所へ移動したとき       (避難所:小学校の体育館や公民館などで雑魚寝する集会所 )  ●2回目                           半年間生活した避難所を出て、仮設住宅へ移動したとき       (仮設住宅:新たな家が見つかるまでの期間に生活する家)   ●3回目                           5~6年生活した仮設住宅を出て、災害公営住宅へ移動したとき    (災害公営住宅:家を無くした被災者向けに建設された家)

復興関連の業種の人たちの間では、こんな表現を耳にします「自然災害で被災すると、コミュニティは3回壊れる。」    被災者は、避難所の生活(半年間) や仮設住宅の生活(5~6年) である程度のコミュニティが形成されたうえで別の場所へ引っ越すことになります。そのため、災害公営住宅へ引っ越して生活が安定する頃には、地域コミュニティを一から作ることに疲れてしまい、ご近所付き合いが疎遠になってしまう人が多いです。

現在、自治会を立ち上げてコミュニティ作りを始めようとしています。今後、この街が活気を取り戻すために重要なことは、堤防を作ったり、新しい建物を建てたり、オシャレな街並みを作ること以上に「❝もっと良い街にしたい❞ と思える人を何人作れるか」だと思います。

海の近くに住むより危険なこと

被災した人たちが教えてくれた教訓を紹介します。東日本大震災の被災地では、こういった地域がありました。

高い津波(10m~15m)に襲われたにも関わらず、目の前に海が見える沿岸部より、そこから少し離れた内陸部の方が犠牲者の割合が高かった。

これは、なぜでしょうか?

〔理由〕

沿岸部の住民は元々、水害に対する危機意識が高かったからです。

実際に沿岸部の住民に聞くと、過去のチリ地震津波(1960年)の話をする人が多いです。更に、ご年配の人であれば昭和三陸地震津波(1933年)の話をする人もいます。この地域で生活すると、家族や学校の先生から津波の話を耳にすることが多いです。その結果、津波を経験していない若い世代も、その多くが水害に対する危機意識を持っていました。

一方、海が見えない内陸部の住民は、その反対でした。話を聞くと、過去の津波が来なかったので、今回(東日本大震災)もきっと大丈夫だろうと思う人が多かったようです。その結果、若い世代の危機意識も、沿岸部と比べて低かったようです。

〔結論〕

津波のことを考えると、❝海の近くに住むこと❞は危険が多いです。しかし、それ以上に危険なのは ❝防災意識が低いこと❞ だと分かりました。

 

あなたも里親になりませんか?

あなたは「おのくん」をご存知でしょうか?

 

〔おのくんとは〕                     おのくんというのは、猿をモチーフにしたキャラクターの縫いぐるみです。正式名称は「めんどくしぇ おのくん」と言い、苗字が「めんどくしぇ」で名前が「おのくん」です。みんなからは「おのくん」と呼ばれています。                2012年4月20日、東日本大震災で被災した宮城県東松島市内の仮設住宅で誕生しました。                  主な「エサ(材料)」は、新品の靴下(大人用でも子供用でもOKです)と綿(ダイソーの手芸綿が合うようです)です。靴下を切り抜いてミシンで縫った後、綿を詰めて手縫いで仕上げるため、一つを完成させるのに2~3時間かかります。靴下で作られているので、ソックスモンキーとも呼ばれています。

〔世界に一つだけのおのくん〕               おのくんは、使用する靴下によってさまざまな色や柄に仕上がります。大きさも、長さ10cmのミニサイズから30cmのビッグサイズまであり、どれも世界に一つだけしか存在しません。例えば、受験シーズンであれば、ゴム状の “滑り止め” が付いたついた靴下を使う「滑らないおのくん」が人気のようです。

〔誰でも里親になれる〕                  現在、東松島市内のJR陸前小野駅前にある「空の駅」が、おのくん作りの拠点となっている交流施設です。          おのくんを展示・販売している場所は「おのくんハウス」と呼ばれ、色や大きさに関係なく、一つ1000円で購入できます。購入者は「里親」と言い、購入したおのくんをおのくんハウスへ連れて行くことを「里帰り」と言います。国内外の里親の数は、延べ10万人以上になり、今は関連グッズや絵本などもあります。里親同士の交流も自然に生まれ、全国に里親会も作られました。里親会の集まりには、おのくんと一緒に参加することで新たなコミュニティも構築されています。

おのくんを作っている人の中には「震災に遭って大変な思いをしたけれど、おのくんに出会えて心のゆとりができた」と話す人もいます。                        「多くの人に東松島を訪ねてほしい」という地域住民の思いから、通信販売より対面販売を優先しています。

あなたも、宮城県東松島市を訪れて、おのくんの里親になってみてはいかがでしょうか?

 

おのくんについて                    〇HP:http://socialimagine.wixsite.com/onokun        〇Twitter:https://twitter.com/onokun1           〇Facebook:https://www.facebook.com/onokunpages

復興とは誇りを持つこと

宮城県内の被災した人たちから聞いた話を紹介します。

この町では、震災後に生ごみの分別基準が厳しくなりました。 例えば…

【生ごみの分別基準】                   砂糖は生ごみだけど、は可燃ゴミで捨てる。       〇味噌汁の具は生ごみだけど、味噌は可燃ゴミで捨てる。   〇 果物の皮は生ごみだけど、は可燃ゴミで捨てる。     〇 バターは生ごみだけど、牛乳は可燃ゴミで捨てる。     〇 卵の中身は生ごみだけど、は可燃ごみで捨てる。…etc

これだけ聞くと めんどくさいな と思っちゃいます。でも、こうなった理由が分かると、誇らしいな と思えるようになるんです…

震災から3カ月後 (2011年6月)の町内沿岸地域

この町は震災直後、電気やガス、石油などが入手できなくて困る人が多かったです。そこで、復興計画を作る際は「生活インフラは地域内でまかなえる町を目指そう!」となり、そのために注目されたのが、今まで埋め立て処理していた生ごみでした。

震災から6年半後 (2017年9月)の町内沿岸地域

2015年に生ごみのリサイクル施設が完成したことで、生ごみから資源 (電気と液体肥料) を作れるようになりました。その能力は…

【処理能力】1日の生ごみ処理量:10.5トン         【発電能力】1年間の発電量:一般家庭 60世帯分      【肥料生産能力】1年間の生産量:1000㎡の田んぼ 700枚分

ただ、住民にとっては生ごみ分別が今までより厳しくなるため、分別に関する説明会は町内全域で60回以上も開催されました。 住民の努力もあって、今 (2017年)では、生ごみ分別率が90%を超えてるようです。将来的には「町の丸ごとブランド化」を目指しているようです。                     こういった経緯を知ると、ゴミの分別が厳しくなっても めんどくさい 以上に 誇らしい と思えるようになります。

おそらく、住民みんなが ❝誇らしい❞ と思えた時、この町の復興がまた一歩前進するのだと思います。

 

台風のおかげで命拾いした私

2016年4月の熊本地震で被災した教会員の話です。

私の自宅は、元々2階建てでした。              ですが、昨年(2015年)の台風で被害を受けてしまい、自宅の2階部分を撤去しました。これでもう大丈夫だろうと思った矢先に今年(2016年)の熊本地震でした。地震の影響で自宅が倒壊寸前の状態になってしまい、全壊判定が出たため取り壊しを余儀なくされました。「私ばかり、なぜ二度も被災するはめになるんだ…どこまで運が悪いんだろう」と何度も思いました。悔しくてやりきれない思いでいっぱいになり、しばらくは辛い日々でした。

そんなある日、(熊本地震後に自宅の)耐震診断をしてくれた建築業者の人と話す機会があり、こんなことを言われました。

「お母さんは強運の持ち主ですね。」            私は最初、意味が分かりませんでした。

「お母さんのお宅は、2階部分が無い状態だったからこそ、今回の地震で寝室が倒壊せずに済んだんですよ。もし2階部分があったら、その重みで1階の寝室が完全につぶれてしまい、お母さんは今頃天国行きになる所でしたよ。」

それを聞いて驚きました。冷静に考えてみれば、確かにその通りだと私自身も思いました。すると、それまで抱えていた辛さや悔しさがスッと解消されいくのが分かり、不思議な感覚でした。

私目線で見ると、去年から今年にかけては災難の連続でしたが、神様目線で見ると、災難が続く中でも私の命を助けようと必死だったのだと気付きました。

関東・東北豪雨から2年

2015年の関東・東北豪雨では、茨城県常総市内を流れる鬼怒川の堤防が決壊したことで、市内の約1/3(40㎢)が浸水被害を受けて、住宅5000棟以上が全半壊しました。発災から2年後、堤防の決壊場所近くに石碑が設置されました。

1.発災当日(2015年9月10日)

鬼怒川の堤防が決壊しました。               ・決壊場所:常総市三坂町                 ・水位:観測史上最高水位である8.06mを記録しました。    ・決壊幅:約200mにわたって川が決壊しました。       ・道路寸断:決壊場所の隣を通る県道が約57m寸断されました。


2.堤防決壊付近の様子の変化

 

    発災1カ月後 ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 発災1年半後

 

    発災1カ月後 ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 発災1年半後


3.発災から2年後(2017年9月10日)

写真:毎日新聞 2017年9月12日「常総水害2年 記念碑設置し黙とうささげ 安心、安全な地域づくり誓うより引用

鬼怒川の堤防上で、決壊した現場を見渡せる場所に石碑が設置されて、除幕式が行われました。市長は「誰でも立ち寄れるようにして、水害を伝えていきたい」と話し、堤防上をサイクリングロードに整備する予定です。水害の教訓を忘れないように設置された石碑には、表面に「決壊の跡」と刻まれ、裏面には災害当時の天候や被害状況が記されています。            堤防整備は、茨城県内の鬼怒川流域44.3キロ区間で進めていて、全工事完了は2020年度中を予定しています。

復興が仕事です

宮城県石巻市内にある小学校の校長先生から伺った話です。

震災後、宮城県は3月11日を「みやぎ鎮魂の日」と定めたため、石巻市内では小学校が休みとなりました。         2016年3月11日、平日でしたが静かな一日を過ごしていました。

〔2016年3月11日 石巻市内の沿岸地域〕

東日本大震災の発生当時、校長先生は石巻市内の沿岸地域にある小学校に勤務していました。

「あの日はすごい揺れでした。地震と聞くと、普通は5~10秒の揺れをイメージしますが、あの時は3分位揺れてました。」

校舎は被災しましたが、校舎内にいた児童たちは全員避難させることができました。

「ですが、助けられなかった児童が1名いたんです。校外にいた子でした。それ以来、校長としてあの子を助けられなかったことが、ずっと悔やまれてですね …(中略)… 翌年の3月11日には、あの子宛ての手紙を書きました。でも、それを読んでいると、あの子から逆に励まされているような感覚になってですね …もっと頑張らなきゃな、と思った瞬間でした。」

その後、別の小学校へ移動になりました。

「移動になって最初に驚いたのは、移動先も被災した小学校だったということです。不思議な縁を感じました。やり直すチャンスをもらったような …そんな気がしました。」

移動先は、校舎自体が床上1メートルくらいまで浸水し、多くの児童が犠牲になった小学校でした。

「児童たちが負っている心の傷は様々です。余震がある日や遠足の日(海が見える場所へ行く日)は学校に登校できなかったり、体調不良で休む日が増えたり、登校できても授業には出れず保健室で休みがちになったり…5年が経過してある程度は落ち着いてきましたが、ゼロにはなっていません。」

震災当時に1年生だった児童たちは、今月で卒業します。

「今月いっぱいで、この小学校で震災を直接体験した児童がいなくなります。そういった意味では、学校としては一つの節目を迎えたと感じています。今後は、東日本大震災を知らない児童が増えていくので、次の世代に震災のことを如何に伝えたらよいのか…今後の大きなテーマだと思っています。」

14時46分に合わせて1分間の黙とうを捧げました。

「復興が仕事です…」

静かな一言からは、復興という言葉の重みが伝わってきました。

 

神様を意識して何が変わったのか?

 UPeaceの東北ボランティア参加者の声を紹介します。

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今回、石巻市でボランティア活動に参加しました。
主な活動内容は、イベント会場周辺の掃除や設営準備でした。国籍をこえて老若男女、様々な人たちと一緒に活動しました。
私の主な担当は、イベント会場周辺の掃除でした。活動を始めてしばらくたつと、他のみんなが綺麗に掃除を進めている中、私の担当場所は掃除後も汚れが残っていました。というのも、元々私は掃除が苦手で、自分なりに頑張りはするのですが手際が悪かったです。
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しかし、ボランティアでこの姿勢はよくないと思ったので、発想を変えて 「神様だったら、どういうふうに掃除するだろうか?」 と考えて掃除をしました。すると、細かい箇所の汚れまで気付くようになったり、より丁寧に掃除することができるようになりました。
その結果、私が担当した掃除場所はとても綺麗に仕上がりました。その光景を見ながら 「自分でも、こんなにきれいに掃除することができるんだ」 と思い、自分自身で驚きました。おそらく、掃除好きの人からすると普通の仕上がりに見えると思いますが、苦手意識が強かった自分にとっては驚きでした。掃除に対して  “やりがい” を感じたり、掃除することが “楽しい” と思えるようになりました。
12.7 04
今回の活動から学んだことは二つあります。
一つ目は、苦手を克服できたことです。今まで掃除が苦手だった私ですが、好きだと思えるようになりました。
二つ目は、考え方が変化したことです。自分の目線以上に、神様の目線で物事を考えることが大切だと思いました。

感想は以上です。
このメンバーが笑顔で掃除する光景が、とても印象的でした。

ボランティア活動のビフォア&アフター

2015年の関東・東北豪雨で被災した常総市でボランティア活動した時の、現場における作業前後の変化を紹介します。 

《 家財道具の洗浄 》 

 ブラシや高圧洗浄機などを使い、机、椅子、棚、ソファー、工具、園芸用の道具など様々な家財道具を洗浄します。洗浄後は、これ以上さびないようにするため、雑巾などで拭いて水気を取ってから片付けます。

 

[作業前]          [作業後]

 


《 家財道具の運び出し 》 

 屋内にある被災した家財道具を、屋外に運び出します。服や布団、畳、ベッドなどの水を吸う材質のものは、重さが2倍〜3倍くらいになります。タンスや窓などは、隙間に泥水が入り込むため、扉が開かなくなることが多いです。更に、床は泥だらけで滑りやすくなっている場所が多いです。

                 [作業前]             [作業後]

 


 

 《 床板の撤去 》   

 バールやハンマーを使って、床板を一枚づつはがしていきます。板を割らないように、1枚づつ丁寧にはがしていき、床板の下にある断熱材も撤去していきます。撤去後は、取り残した釘を抜いていきます。力より技術が必要になる作業です。

                 [作業前]                [作業後]

 


 《 床板の泥出し》

  床下のスペースは狭いため、大きな作業道具は使えません。園芸用の小さいスコップや片手用のクワなどを使い、少しづつ泥を集めて撤去していきます。家の被災状況次第で、溜まる泥の高さが1cm程度の場所もあれば10cm以上の場所もあり、その量には天地の差があります。

                [作業前]           [作業後]

  上記以外にも、被災した学校のグランド整備、支援物資の仕分けや運搬、避難所の運営補助...など、現地からのニーズに応じて作業内容は様々です。