語り部をやる理由 [後編]

東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で、語り部をしている人から聞いた、ご自身の体験談です。

[前編のつづき]

地震発生から30~40分後、街に津波がやって来ました。津波は防潮堤を乗り越えて住宅街へ侵入し、私たちの町を次々に破壊し始めました。その瞬間、私を含めた誰しもが予想していなかった “想定外の事態” が発生したのです。

津波の侵攻する音が町中へ響く一方、まるでその音と競うように、町中へ響き渡るもう一つの音がありました。

「津波が来ています!早く避難してください!!」

それは、避難を呼びかける町内アナウンスの声でした。声の発信場所は、街の中心部に位置する防災対策庁舎(高さ12mの3階建て)でした。当時は、町長を始めとする町職員50名以上がこの場所で災害対応をしつつ、男女2人の職員が交代しながら、町内アナウンスで避難を呼びかけていました。この2人は私の知人でもあったので、当時のアナウンスの声は、私自身もよく覚えています。その声は、力強い叫び声のようなアナウンスで、まるで「津波の音なんかに負けるものか!」と言わんばかりに、町中へ響いていました。

町内アナウンスというのは、普段の落ち着いたトーンで話されても、なんとなく聞き流してしまいがちです。しかしこの時は、その声があまりにも必死だったため、“ハッ”と我に返ったかのように高台へ逃げてくる人も多くいました。

しかし、津波はやがて防災対策庁舎にも到達してしまいました。「もう逃げられないんじゃないか?」「庁舎にいる人は大丈夫か?」と、高台から見ている誰もが心配になりましたが、アナウンスは止まりませんでした。あの時もしかしたら、庁舎の職員も覚悟を決めていたのかもしれません。

しかし、2階位の高さまで浸水した頃、突然の “プツッ” という音を最後に、アナウンスは聞こえなくなりました。その後は、津波によって家々の壊れる音だけが町中に響きました。津波の高さは更に上昇して、最終的には高さ12mの庁舎がどこにあるのかも分からなくなりました。

気付けば、雪も降り始めました。気温も下がって冷え込んできたかと思うと、街の様子も見えなくなるくらいの大降りになりました。ただ、建物の壊れる音も聞こえなくなってきたため、津波も徐々に落ち着いてきたのは分かりました。そこで、高台にいる人たちも皆、建物内へ避難しました。

後日、この町を襲った津波の高さは約15mだったと分かりました。高さ12mの防災対策庁舎は屋上まで津波が届き、屋上に建っている電柱とフェンスの一部だけが、辛うじて津波の上に顔を出している状況だったようです。結果的に、この場所で助かった職員は10名だけでした。多くの犠牲が出てしまった一方、その場所から発信された命懸けのアナウンスは、多くの人の命を救いもしました。私の知人でも「あの必死な声で背中を押されるように避難した」「最初は自宅にいたけど、あの声で “ハッ” と我に返ったように避難した」と話す人は多かったです。

多くの犠牲が出た場所は基本、取り壊されてしまいますが、この建物は震災20年後(2031年)まで残されることになりました。そこに意味を感じた私は、語り部をする際に、防災対策庁舎の話も紹介しています。

私は語り部をしている関係で、全国からこの町へ来る人と話す機会は多いのですが、その際、この町へ来たキッカケを聞いてみると、「町内アナウンスの話に感動して…」「残された庁舎の建物を見たくて…」と答える人が多いです。学生さんであれば「学校の授業中に『天使の声』というタイトルで学び、興味を持ったので…」と答える人もいます。

今回の東日本大震災に限らず、自然災害が起きると「どのような被害が出たか?」「復興はどこまで進んだか?」などの “目に見えている事実” に関心が向けられてしまいがちです。しかし私は、“目に見えていない事実” にも関心を向けてほしいと思っています。その方が、一人一人の人生により良く、より大きく影響すると思うからです。

ただ、震災を経験していない人へこの内容を伝えるためには、書籍や映像だけでなく “語る人” も必要だと私は感じました。それが、私が語り部をやる理由かもしれません。

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