東日本大震災の被災地で語り部をしている人から聞いた話です。
〔典型的な東北気質〕
沿岸部に位置するこの町は「生まれてから引越しをした経験が無い」という人が多いです。つまり、生まれてから死ぬまで、ずっとここで住み続ける人の割合が多い町なんです。就職のタイミングで他地域へ引っ越したり、逆に他地域からこの町へ引っ越して移り住むような人は少ないです。
町民の人柄としては、辛い出来事があっても我慢強く、忍耐強く、他人の力は借りず、周囲に迷惑はかけず、自分たちの力で乗り越えようとする典型的な東北気質の人が多いです。実際、他地域の人からも「町民間の絆が強いですね」と、よく言われます。誰かが困っていると住民間で助け合う文化があります。でも、裏を返せば不器用なんです。人見知りで、あまり面識のない人と接する時は、自然と不愛想になってしまう人が多いんです。
〔東日本大震災発生〕
2011年3月11日、東日本大震災によって、この町の中心部には10m以上の津波が襲いかかり、町は一瞬で壊滅しました。
私も含めて生き残った人たちは避難所へ駆け込んで何日も過ごしました。しかし、食べ物や飲み物は無く、スマートフォンは全て圏外でした。屋外では雪が降る中、濡れても着替える服が無かったので、震えながら過ごしました。夜に寝る時も、毛布などの寝具が一切無かったので、窓のカーテンを外して体調を崩している人や子供たちへ優先的にかけました。当然、プライバシーは一切無く、生活の全てが周囲の人たちから丸見えでした。
さすがにこの時は、町民間の助け合いだけで乗り越えるのは難しいと誰もが感じていました。私の周囲でも「人生、もうダメだね…」「これから一体、どうしたらいいんだろう…」と、途方に暮れる人が多かったです。
〔駆けつけてくれた人たち〕
そんな時、壊滅したこの町へ助けに来てくれたのが、自衛隊やボランティアを始めとした町外の、全国各地の人たちでした。様々な生活物資を支給してくれたり、家の中の泥出しを手伝ってくれたり、炊き出しで暖かい手料理を配布してくれたり…。私が印象的だったのは、自衛隊から提供された入浴サービスで、皆は “自衛隊風呂” と呼んでいました。この時、私を含めた避難者の多くは、震災から数カ月ぶりに風呂に入ったので、言葉では表現しきれない不思議な感動がありました。身も心も温まって、それまでピリピリと張りつめていた緊張の糸がほぐれたような感じでした。
これらの支援が本当に嬉しくて助かったんですけど、それと同時に、町民たちはすごく驚きました。今まで町外の人たちに対して閉鎖的で、関わり合いが少なかった分、いざという時に、こんなにも多くの人たちが助けに来てくれるなんて、思ってもいなかったからです。また、ボランティアの人と話してみると、ほとんどがこの町へ初めて来た人、言葉を換えれば、縁もゆかりも無い赤の他人だったことで町民たちは更に驚きました。「あの若い人たちは、学校や仕事を休んでまで支援に来てくれたのか?」「縁もゆかりも無いこの町のために、自腹でお金を出してまで、どうして助けてくれるのか?」と話す町民が多かったです。
〔町の変化〕
それから数年かけて、町の雰囲気はガラリと変化しました。
その変化が分かりやすく表れているのが、「町を挙げて移住者を歓迎するようになった」という点です。移住者に対しては、住居探しや仕事のあっせん、町民間のコミュニティ作り、町からの経済的支援など、町や住民が様々な面でサポートしてくれます。そのおかげで、縁もゆかりも無い人でも、この町へ移住して来やすい環境になり、20代~30代の若い人の移住者も少しづつ増えてきました。
移住者に話を聞くと「赤の他人の自分にも親しく接してくれて嬉しかったのが、移住を考え始めたきっかけです」「都会にはない魅力が、この町にはありました」「自宅と職場を往復する一人の生活よりも、山と海に囲まれて皆で生活する方が生き甲斐を感じる」という声を、よく耳にします。
これは、震災前と比較すると、考えられない光景です。ここまで町全体が変わることができた理由は、町民一人ひとりの意識が変化したからだと思います。
震災当時の「赤の他人から何回も助けられた」という経験を通して、町民の人付き合いが大きく変わりました。町内の人(気心の知れてる人)に対してだけ優しく接するのではなく、町外から来た人(赤の他人)に対しても優しく、親しく、壁無く接する人がすごく増えたのです。そして、何を隠そう、私自身もその一人なんです。
震災は、この町に多くの悲しみをもたらしましたが、良い意味でもたらしたものを挙げるとすれば、それは「意識改革」だったと私は感じています。