教員から語り部へ [前編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、沿岸地域の高台の上に位置する中学校で教員をしていた人です。

震災当時、私は中学校にいたのですが、津波は校舎までは届かず、生徒たちは皆無事でした。しかし、内陸に位置する小学校へ通っていた私の娘が犠牲になりました。あまりにも突然過ぎて、最初は涙も出ませんでした。娘は6年生だったので「震災があと1ヵ月待ってくれれば、私の中学校へ入学して来て、助けてあげられたのに」と、何回悔やんだか分かりません。しかし、震災翌月からはまた、新たな新入生も入学して来ます。私と同じような傷を負った生徒たちのことを想うと、私自身が立ち止まるわけにはいきませんでした。

新年度を迎えて、新入生たちが入学してきました。「もし震災が無ければ、私の娘もここにいるはずだった」と思いながらも「娘にしてあげられなかったことを、せめて新入生たちに」と思うように切り替えて、前へ進みました。この当時は、1日1日が必死でした。

すると、ある時から不思議な感覚を持つようになりました。生徒が生徒ではなく、別の存在に見えてきたんです。それは、なかなか表現しにくい感覚でしたが、一言で言うなら “命” です。生徒一人ひとりが “ただの人間” ではなく “輝く命” に見えたんです。言葉を換えれば、尊い命を与えられた輝く存在、または唯一無二の価値を持つ貴重な存在。生徒一人ひとりに対して、そう感じるようになりました。

震災4年後、私は教員を辞めました。そこで、教員生活を振り返ってみると、震災の前と後で、ある変化に気付いたんです。

教員時代、私はクラス担任をしていました。すると、同じ生徒たちと1年間を共に過ごすので、大半の生徒とは仲良くなります。 でも中には、ぶつかり合う関係のままで終わってしまう生徒や、何かしらのわだかまりが残ったまま終わってしまう生徒もいました。それが震災前です。

それに対して震災後は、心に深い傷を抱えて荒れる生徒が増えるだろう、生徒とぶつかる回数も増えるだろう、と覚悟していました。しかし、震災後の4年間を振り返ると、不仲のまま1年を終えた生徒は一人も思い浮かばなかったんです。生徒たち全員と、とても仲良くなれたんです。これは、私の教員人生にとっては大きな変化でした。

教員を辞めた後、私は語り部や講演活動を含む様々な活動に取り組むようになりました。

親の願い

東日本大震災当時に中学生だった女性の話を、震災から2年後に聞きました。

私は、震災前の時期は反抗期だったので、母と毎日のように喧嘩してました。それが落ち着き、やっと仲良くなってきた時に震災があり、母が犠牲になりました。

それから半年後、母からの手紙 が見つかり、家族みんな驚きました。震災前に、母が家族の一人ひとりに対して書いてくれていたものでした。自分宛ての箇所を読んでいると、自然と涙がこぼれました。手紙には『いっぱい手伝ってくれて、お母さんはとても感謝してました』とあり、私の気持ちを理解してくれていたと分かり、嬉しかったです。また、夢についても触れていました。読み進めると、母は私に対して、夢に向かって頑張ってほしいと願っているのが分かり、私は “ハッ” としました。

それまでの私は、母を亡くして悲しいという “自分の気持ち” だけで、いっぱいいっぱいでした。しかし、この手紙を読んだ時、初めて “母の気持ち” に気付いたんです。母は、私に対して悲しんでほしいのではなく、夢に向かって進んでほしいと願っているのだと思いました。

そこで私は、自分の夢は何かを考えてみましたが、いきなり考えたところで、すぐに見つかるはずもありません。結局、夢は思いつきませんでしたが、母のことは大好きだったと改めて思ったので、“母のようになりたい” とは思いました。そこで、普段の母の行動を思い出してみると、家の掃除や洗濯、料理、お弁当作りを毎日欠かさずやっていました。…ということは、同じことを私もやれば、少しは母に近付けるかもしれないと思いました。

翌日から私は、料理や家事を始めました。料理経験が無くて最初は大変でしたが、続けました。それからは1日も休まず、今でも毎日続けています。ただ私は、料理があまり得意ではないため、食事中に家族からダメ出しされることもよくあります。それでも続けてるせいか、最近では「お母さんに似てきたよ」「料理してる時は、お母さんにそっくりだよ」と言われることもあります。

料理をしている時は、ちょっと不思議なんですけど、天国にいる母が私の近くまで来てくれて、私のことを応援してくれるような… 元気付けてくれるような… そんな気がするんです。例えば、学校で嫌な出来事(友達とケンカしたり、テストで悪い点数を取ったり)があった日でも、家へ帰って台所に立ち、包丁を持って料理を始めると、心が落ち着いてくるんです。どこか安心できるんです。そのせいか、外で物音がすると「お母さんが帰って来たかな?」と思ってしまう時が、今でもよくあります。

手紙を読んだあの時は、夢を聞かれても答えられませんでしたが、今なら答えられます。“大好きだった母のようになりたい” それが私の夢です。

自然災害の捉え方

東日本大震災の発災当時、被災した地域の新聞社で働いていた方から聞いた話です。

震災当日、津波は新聞社の2階の床上まで届いてしまいました。 電気機器がやられ、1週間ほど印刷できない状況になりましたが、その間も紙とペンだけで手書きの新聞を発行し続けました。

震災翌日、複数の避難所の壁に新聞を張り出すと、「助かります」や「待ってたよ」という声と共に、多くの人が食い入るように読んでいました。ただ、記事の内容としては被害情報などの暗いニュースが多かったため、紙面の上段には、できるだけ良いニュースや希望的なニュースを載せるようにしました。取材中にご遺体を発見することもあったため “いつか、親しい人の不幸に遭遇するかもしれない” と、覚悟して取材しました。どんなに辛い話からも逃げず、事実と対峙しようとする姿勢が求められました。

私は、自身が被災者という立場でありながら、被災者から話を聞く立場でもあったため、様々な角度から震災を見つめました。また、新聞社という職場環境のため、良くも悪くも震災に関する様々な情報が集まり、震災と向き合う毎日でした。そんなある日、私の中で震災というものの捉え方が変わりました。私が被災した理由は、“私の運が悪かったからだ” というより、“私が託されたからだ” と捉えるようになったんです。

東日本大震災は “1000年に1度” と言われますが、その “1度” に遭遇した被災者が「なぜ今なんだよ」「運が悪かったのか?」「誰を恨めばいいんだよ」「バチが当たったのか?」「先祖が沿岸地域に街を作ったせいで、子孫の我々が痛い目にあった」と思うのは当然です。私も、被災直後は「(自然環境に対して)ここまでやるかよ」と思いました。

その一方で、「起きたことは仕方ない」「私が前を向けば、子供も笑顔になる」「震災前より良い街に変えることが供養になる」「私が努力次第で、未来の津波から子孫を救える」という捉え方をする人たちもいます。私にとっては、こういった前向きな捉え方の方がしっくりきました。

私は、震災を大きな課題だと捉えています。この課題は既に託されたので、逃げることはできませんが、向き合って取り組めば解決もできます。ただ、解決するためには、ものすごい苦労や努力が必要です。それが嫌なら、課題に取り組まなくても誰も文句は言いません。あとは自分次第です。私は使命感を持って、この課題に取り組んでいるつもりです。この1000年に1度の課題を解決すれば、1000年先の子孫までは同じ辛さを経験させなくて済むだろう。その分、未来は今より平和になるだろうという捉え方をしてます。

毎日忙しく、苦労も多いですが、使命感のような感覚があるからか、不思議と嫌にはなりません。

次の世代へ伝える仕組み

宮城県石巻市の沿岸地域に【がんばろう!石巻】と書かれた看板が立っています。2016年にこの場所を訪れた際、看板を設置した人から聞いた話です。

         「がんばろう!石巻」の看板(2016年9月16日)

3月11日、この地域は6.9mの津波に襲われました。私も自宅兼店舗を失い、避難所に身を寄せました。

数日後、落ち込んでいる友人と話しながら、ふと『がんばっぺ』と言っちゃったんですが、まるで自分自身もそう言われたような気がしたんですよ。“私も頑張らなきゃな”って思いになました。

10日後、店があった場所で何かないか探していると、がれきの下から工具箱が見つかりました。箱は泥だらけでしたが、中からはドリルなどの工具が出てくるのを見て、まるで宝物を発見したような気持ちになりました。少し希望が湧きました。家も無くなり、職場も無くなり、できること自体が限られている環境だったので “できることは全部やろう” と思いました。そこから、私なりにいろんなことに取り組んだのですが、その中の一つが看板作りでした。

         看板が設置された頃の様子(5月22日)

1ヶ月後、店があった場所に【がんばろ!石巻】の看板を設置しました。製作から完成までは5日かかりました。友人にも協力してもらい、店の周辺に流れ着いた大きめの板を店の跡地の基礎部分に取り付けて、ペンキで文字を書きました。当時は、看板周辺が一面がれきだらけで、自衛隊も遺体捜索をしている状況だったため、看板を見て疑問の声を投げかける人もいました。しかし、看板を見て手を合わせる人、『励まされた』や『勇気付けられた』と言う人もいて、やって良かったと思いました。

  看板横に設置されたツリー(2012年12月24日)
  看板横に設置された鯉のぼり(2013年5月3日)

その後、5月になると鯉のぼり、8月には七夕飾り、12月にはクリスマスツリーなど、季節に合わせていろいろな物を設置しました。毎年の3月11日や、震災から1000日ごとの節目に合わせて追悼の場を持ちました。

5年後、看板の場所が町の再開発工事に影響することから、設置場所を若干海側に移転させることになりました。ちょうど看板自体も老朽化していたため、サイズやデザインは全く同じで新しい看板を作り、設置しました。

    撤去される前の看板(2016年3月11日)
  新たに設置された2代目の看板(2016年5月1日)

この2代目の看板は、近くの中学校の生徒さんも一緒に製作しました。今後は、ペンキの塗り直しや定期的な補修作業も一緒にやりたいと考えてます。月日が流れることで震災の風化が懸念される中、この活動が 震災を未来の世代へ伝えていく仕組み の一つになればと思っています。