仕事へ取り組む姿勢

東日本大震災の発災当時、被災した地域の新聞社で働いていた方から聞いた話です。

震災当日、津波は新聞社の2階の床上まで届いてしまいました。 電気機器がやられ、1週間ほど印刷できない状況になってしまいました。しかし、紙とペンは準備することができたので、印刷機が使用できない期間は手書きで避難所の掲示板へ貼るタイプの壁新聞を発行することにしました。

震災翌日の3月12日、早速、壁新聞の第一号を作りました。配布は午後になってしまいましたが、複数の避難所の壁に新聞を張り出すと、「助かります」や「待ってたよ」という声と共に、多くの人が食い入るように読んでいました。ただ、記事の内容としては被害情報などの暗いニュースが多かったため、紙面の上段には、できるだけ良いニュースや希望的なニュースを載せるようにしました。

新聞社という職場環境のため、良くも悪くも震災に関する様々な情報が入ってきました。中には、被災地での取材中にご遺体を発見する記者もいたため、記者たちは皆 “いつか、親しい人の不幸にも遭遇してしまうかもしれない” という覚悟を持って取材にあたりました。どんなに辛い話からも逃げず、事実と対峙しようとする姿勢が求められました。

東日本大震災は “1000年に1度” と言われています。その “1度” に遭遇した被災者からは「俺たちは運が悪かったのか?」「誰を恨めばいいんだよ」「なぜ、今 (2011年) なんだ?」「先祖が沿岸地域に街を作ったせいで、子孫の我々が痛い目にあった」と訴える声を、震災直後は数えきれないほど聞きました。何を隠そう私自身も、自然環境に対して「ここまでやるかよ!!」と怒りを覚えた一人でした。

しかし一方では、家族の不幸に遭遇しつつも「起きたことは仕方ない」「こんな時こそ、ご近所で助け合ってます」「私が前を向けば、子供も笑顔になると思うので…」と、震災を受け止めて頑張ろうとする人の声も多く聞きました。更に、時間の経過と共に「震災前より良い街に変えることが供養になる」「私が苦労すれば子や孫の世代を津波から救える」と、少しでも前向きの方向に捉えようとする人の声も増えてきました。

そして、多くの “声” に触れる中で、東日本大震災に対する私の考え方も変わりました。

私は、震災を “課題” だと捉えています。それは、数十年くらい時間をかけて、じっくり解決していく大きな課題です。課題は既に出題されてしまったので、今更無かったことにはできません。しかし、課題に向き合って取り組めば、前へ進むことも可能です。ただ、解決へ至るためには計り知れない苦労が必要なので、それが嫌なら、課題に取り組まなくても、誰も文句は言いません。

今から数十年後の日本が、果たして、良い方向へ進んでいるか?悪い方向へ進んでいるか?は、「日本国民一人ひとりが、この課題に対してどう向き合うか?」にかかっていると、私は思っています。

私は、自分自身が被災した理由は “運が悪かったからだ” と、震災直後は思っていました。しかし、本当はそういう理由ではなく、“課題を解決できると信頼された私たちが、時代から託されたからだ” と思うようになりました。そして、「1000年に1度の課題を解決すれば、今後1000年先の子孫まで、同じ辛さを経験させなくて済むだろう」と、私は考えています。そして、「この課題を少しでも解決の方向へ近付けることで、未来のこの国を平和にしたい」という使命感を持って、仕事に向かっています。

私自身の使命感が明確になったことで、より、仕事にも力が入るようになり、震災前よりも忙しい毎日になりました。しかし、仕事に対して嫌な感情が全然湧かなくなり、苦労が増えても「ありがとう」と思えるようになったのです。「仕事とは本来、こういう姿勢で取り組むべきなのだろうな…」と、私自身も教えられた気がします。

ボランティアに必要な要素

2015年9月の関東・東北豪雨の被災地である茨城県常総市で、被災した人から話を聞きました。この人の持つ工場は、近隣の河川の堤防が豪雨で決壊したことにより、床上2~3mの洪水被害にあいました。

豪雨の時は、工場の近くにある川が「決壊しそうで危険だ!」という情報が入ったため、予め避難したことで人命は助かりました。しかしその後、洪水が落ち着いて水が引いた後に工場の様子を見に行くと、建物の外観は大丈夫でしたが、屋内は被災してグチャグチャでした。泥やがれきが、工場内一面に50cm位の高さで堆積していたため、その光景に圧倒されました。

しかし、立ち止まっていても何も始まらないので、「とりあえず何とかしなきゃ」という思いになり、できるところから片付け始めましたが、全然進みませんでした。例えるなら、「小学校の体育館の中一面に、膝上の高さで泥とガレキが溜まっていて、それを自分一人で、道具はスコップ一本だけで、全て片付け終わるまでは収入0だ…」 と言われたような状況でした。

諦めかけていたある日、ふと近所を見ると、ボランティアさんが作業している光景を見ました。「もしかしたら、自分も頼めるのかな?」と思って相談すると、すぐボランティアさんが来てくれました。最初は10人でしたが、工場内の泥の多さを見たら、翌日は20人以上来てくれました。その後も継続して手伝ってくれたおかげで、数日後には泥の下に隠れていた床のコンクリート面が見えるようになりました。最初は「もう、何もかも終わりなのかな」と “絶望” していたのに、「また、この場所で仕事を再開できるかもしれない」と “希望” が見えたんです。 支援してくれたボランティアさんは100人以上になります。本当に助かりましたよ。

私は、来てくれるボランティアさんたちに話をいろいろと聞く中で、驚いたことがあります。「ボランティア」と聞くと、私は最初「体力に自信のある人やお金や時間に余裕のある人、ボランティア経験豊富な人」がやる活動だという先入観がありましたが、実際は全然違ったのです。60代後半の定年後の人や10代前半の子供、バイトの合間に来てくれた金欠気味の学生、わざわざ仕事を休んで来てくれた社会人、縁も無いのに九州などの遠方から来てくれた人もいました。更に、ボランティア自体が初めてという人が想像以上に多かったです。

そんな姿を見ながら、私のボランティアに対するイメージが変わりました。ボランティアにおいて体力や経済力、経験値などの有無はあまり関係無くて、それ以上に大切なのは 気持ち だと感じました。実際、私がボランティアさんと接しながら感動した瞬間は、ボランティアさんの “働きぶりを見た時” よりも、その “心意気を聞いた時” でした。助けたいという気持ち一つあれば、誰にでも素晴らしいボランティアができるのだと思いました。

実は私、2011年の東日本大震災の時に、ボランティアをするために現地へ行こうとしたことがあります。ただ、当時の私は「ボランティア未経験の私は役に立てないかも…」「土地勘の無い私が行くと、逆に迷惑をかけるかも…」「休みもつぶれちゃうし…」と、いろいろ考えた末に、行くのを止めました。今になって振り返ってみれば、当時の私は、行かなくてもいい理由を見つけて自分を納得させていただけだと分かりました。お恥ずかしながら、私の中にある “助けたい” という気持ちが弱かっただけだと気付いたんです。

今回、私はボランティアを “される側” になってみて、その有難さをすごく身に染みました。そして「3.11の時、なぜ自分は行かなかったのだろう」 という後悔と共に、「次に大きな災害が起きた時は、ボランティアを “する側” になろう!」という気持ちが強くなりました。