語り部をやる理由 [前編]

東日本大震災の被災地である宮城県南三陸町で、語り部をしている人から聞いた、ご自身の体験談です。

2011年3月11日の午後2時46分、東日本大震災が発生しました。その当時、私は近所のスーパーで買い物をしていました。突然の大きな揺れに驚いた私は、買い物かごを頭からかぶり、店内の安全な場所で、揺れが収まるまでじっとしていました。店内を見渡すと、揺れに驚いてパニックになり、店の外へ逃げようとする人が多かったのですが、揺れがあまりにも激しかったため、まともに歩けている人はいませんでした。結局皆、店内で何かにつかまったり、四つん這いになった状態で、揺れが収まるまでじっとしていました。

地震と聞くと普通、揺れは5秒~10秒程度をイメージすると思いますが、この時は違いました。30秒経っても1分経っても揺れ続けていました。一度、揺れが収まったかと思ったのですが、また強く揺れ始めました。結局、一通りの揺れが収まって立ち上がることができたのは、最初に揺れ始めてから4分位経った頃でした。つまり、丸3分は揺れ続けていたと思います。

揺れが収まると、私は直感的に「ここまで揺れたら、津波が心配だ…」と思いました。店の外へ出ると、道行く人たちは「どうしたらいいんだろう?」と混乱した雰囲気だったので、「津波が来るかもしれないから、高台へ避難しましょう!」と促しながら、私自身もすぐに避難しました。

山の上の高台へ到着すると、町の中心街から海の方まで一望できました。私は、海の様子の変化を注視していましたが、遠目に見ている限りは、10分経っても20分経っても、海はいつもと変わらぬ景色でした。一方、町では津波警報が鳴り響いていましたが、ここは海が近いため、警報が鳴ることは今までも何度かあり、ここまでは住民にとっても慣れたもので、わざわざ高台までは逃げない人も多かったくらいです。

すると、地震から30~40分が経過した頃、海の様子が変わり始めたと思うと、津波がやって来ました。しかし、この町は過去にも津波に襲われた経験があったので、沿岸部には防潮堤があり、津波の到達前には、水門もしっかり閉められていました。おそらく町民にとっても、ここまでなら想定内だったと思います。高台に避難した人たちも、最初は安心した様子で「あれは津波っぽいね~」「あれだけ揺れたんだから、波も来るよね~」と、和気あいあいとした雰囲気で話していました。

しかし、防潮堤は津波を止めることができませんでした。津波が防潮堤や水門を軽々と飲み込んでしまったのです。津波はそのまま、住宅街へ侵入していき、私たちの故郷を次々と破壊し始めました。

その光景を目の当たりにした高台の人たちは様子が一変、まるで魂が抜けてしまったかのように、ただ茫然と、その光景を見つめていました。何か話そうとしても、うまく言葉にできず、誰もが「何これ?」「嘘でしょ?」「もう終わりだ…」と、同じ言葉を繰り返すばかりでした。

誰しもが予想していなかった “想定外の事態” が発生したのです。

[後編へつづく]