自衛隊より早かった救助 [後編]

東日本大震災当時、宮城県南三陸町の入谷地区(海から約5km内陸の山間部の地域)で消防団員だった人から話を聞きました。

ーーーーーーー〔後半〕ーーーーーーー

志津川病院へ救助に向かった消防団員6名は、多くの土砂やがれきに行く手を阻まれたため、平常時と比べて3~4倍の移動時間がかかってしまいましたが、ようやく病院へ到着しました。

5階建ての病院で、避難者たちは最上階の会議室に身を寄せていました。我々が到着すると、職員から「ここでは230人が孤立しています」と説明を受けました。入院していた私の知人は「まさか、自衛隊より早く助けに来てくれるとは思わなかったよ…これで家に帰れる!」と安どの表情を浮かべました。同じ消防団員も、自身の親戚の看護師の無事を確認して、涙を浮かべました。院内の様子を聞くと、電気・ガス・水道・ネット回線等が全て止まったため、昨夜は雪が降って寒くても暖房器具を一切使えず、手ぬぐいや病室のカーテンを体に巻いて寒さに耐えていました。食事も、1人あたり柿の種1粒と氷1片ずつが配られただけでした。

状況確認が終わると、すぐに避難経路の確保を始めました。1人が屋上から海を監視し、残りの5人ががれきを片付け、病院を出てから近くの高台へ移動するまでの安全な避難経路を作りました。病院近くの川の水位が落ち着いたのを確認して “今しかない” と思い、自力で歩ける避難者120人を連れて、高台へ避難誘導しました。その後、自衛隊のヘリも屋上に到着して、残された避難者を搬送し、全員が無事救助されました。

後日、あの日の我々の行動を振り返ると、同じ団員の身の安全を考えたら、本当に良かったか疑問に思う時もありました。でも、あの時助けに行けたのは、我々しかいなかったのも確かです。

 

この経験があったからか、最近は他県で開催される社協のイベントなどに呼ばれて講演することもあります。すると、講演会の参加者からは「教訓は何かありますか?」と、よく聞かれます。 そんな時は「有事に備えて水の確保、食料の備蓄、トイレをどうするか…」など、“物” の必要性を話しつつも、それだけでは十分ではないと伝えます。「重要なことは、それらの “物” をご近所同士で共有し、互いに足りない物を分け合うこと。この助け合いこそが、“地域コミュニティ” なんです」と強調します。

震災当時、自衛隊よりも早く救助活動を開始できたのは、地震が収まった直後からご近所同士で助け合えたからなんです。近くの避難場所では、お米や鍋、おかず…など、必要そうな物を各自が持参して、独自の “炊き出し” を始めたので、食べ物にはあまり困らなかったんです。こうした連携が自然と生まれる地域だったので、救助に向かう際は70人も集まったんです。

今回の災害は、この “地域コミュニティ” の大切さ、その在り方を再確認するために起きたのだと思わざるを得ないんです。

自衛隊より早かった救助 [前編]

東日本大震災当時、宮城県南三陸町の入谷地区(海から約5km内陸の山間部の地域)で消防団員だった人から話を聞きました。

ーーーーーーー〔前半〕ーーーーーーー

あの日、ここ(入谷地区)は海から離れてたから津波は来なかったですが、地震の揺れはすごかったです。揺れが収まると、近隣住民がすぐ集会所に集まって情報収集しました。すると“町の中心部は10m以上の津波に襲われた” とか “警察や消防、役場も含めて機能していない” という情報が入る中、ラジオで流れた「志津川病院(海近くの病院)で200人以上が孤立…」というフレーズが気になりました。この状況下で助けに行けるのは、うちら(津波被害が出てない地域の消防団)しかいないと思ったからです。

震災翌日の朝、私も含めて消防団員が数十名集い、市街地で孤立した人たちの救助に向かいました。ある程度歩くと津波が到達したエリアに入り、路面には土砂やがれきが散在しました。津波は、海から約3km程内陸まで届いていました。

震度45の余震も頻繁に起きました。「今の余震で、また津波が来るぞ!」「高い所へ上がれ!」といった仲間の声にも動揺しました。一晩経って水自体はある程度引いてましたが、海へ近付くにつれて、大木や車、家財道具、家の屋根などのあらゆる物が道路にあふれ、津波の爪痕が色濃くなってきました。市街地へ向かう道路は国道が2本ありましたが、片方は途中の橋が崩落して使えなかったので、もう片方の国道398号線、これが生命線だと思いました。 

 

市街地に到着すると、消防団員を3つ(中学校行き、高校行き、病院行き)に分けて、私を含めた6名は病院へ救助に向かいました。

しばらく進むと病院が見えてきました。しかし、この辺りまで行くとがれきの量も多く、人の背丈よりも高く積まれていたため、視界を邪魔して海の様子が一切見えませんでした。私は、一瞬迷いました「これ以上先へ進んだら逃げ場が無くなる。余震と共に津波に襲われたら我々全員、命は無い進むか?戻るか?」と。しかし、共にいた消防団員が『自分の親戚にあの病院の看護師がいて、地震以降は連絡は取れておらず、どうしても無事を確認したいと話していたのを思い出し、「ただでは帰れない。行くぞ!」と声をかけて、病院へ急ぎました。

道中、がれきの中から遺体を発見することもありました。一緒に連れて行きたかったですが、あの状況下ではどうすることもできず… 毛布をかけて、手を合わせることしかできなかった自分が悔しかったです。

平常時と比べると3~4倍の時間がかかりましたが、ようやく病院に到着しました。

ーーーーーーー〔後半へ続く〕ーーーーーーー

今だからこそ言える冗談

東日本大震災の発災当時、中学2年生だった女性の話です。

私はあの日、学校で上級生の卒業式の準備をしている時に地震が起きました。学校自体は高台に位置して安全だったので、生徒たちは体育館に身を寄せました。先生たちが窓のカーテンを閉めて、生徒たちに津波が見えないよう配慮してくれました。そのため、体育館の中ではいつもと変わらず、いたって普通の時が流れていました。唯一違う点は、町内放送で避難を呼びかけるアナウンスが繰り返し流れていたことです。しかしその音声も、やがて「プツッ!」っと途切れました。近隣住民も避難する中、生徒たちは体育館で一夜を過ごしました。

翌朝、学校の校庭に出て街を見下ろすと、あまりにも変わり果てた光景でした。最初は、現実を見るよりドラマを見ている感覚に近くて、自分の目で見ているのに全く実感がわかなかったです。

お店周辺の様子(2011年6月6日)

母の経営するお店が沿岸地域にあったのですが、その様子を見に行った時に、初めて津波が来たことを実感しました。店は丸ごと全部流されてしまい、何も残ってませんでした。店の敷地内に残されたガレキを見ましたが、他の場所から流されてきた物ばかりで、この店の物は何も見つかりませんでした。

自宅へ帰ると、高台の上に建っていたので無事でした。その後、自宅で母や妹と生活しましたが、1週間が経過しても、依然父だけが行方不明でした。父は、山を越えた隣町の海近くにある鉄工所で働いていました。この町は、10m以上の津波が到達したことで引き波の力も強く、沖へ流されて行方不明になった人が多かったです。そのため、家族で相談した結果、父のお葬式をあげることにしました。

父のお葬式の準備を進めていたある日、家の玄関が「ガチャ!」と開いたと思ったら、突然父がひょっこり帰って来ました。  あまりにも突然過ぎたので「おかえりなさい」ではなく「どうして帰って来たの?」と言ってしまいました。家族みんなが驚き過ぎて 、“良かった” ではなく “どうして今更?” という思いでした。その後、父といろいろ話しているうちに緊張の糸がほぐれて、母は泣き崩れちゃいました。あの時は最初 “驚き” があまりにも強過ぎて、“嬉しい” という感覚はほとんど無かったです。

お店周辺の様子(2018年11月1日)

今(2018年11月)では、父との間でもめ事があると、私が冗談で「あの時に津波で流されちゃえば良かったのにね」と言ったりします。すると母も「そうよ!そうよ!」と言います。

何事も無くこの冗談を言い合っていたら、かなりブラックな家族だと思われます。でも私からすると、あの時の辛さを共に乗り越えていく中で深まった家族の絆 があるからこそ、笑って言い合える冗談かなと思います。

写真が宝物に変わる日

東日本大震災で被災した女性が教えてくれた教訓です。

発災当時、この町は10m以上の津波に襲われて、私の自宅を含めた沿岸部の住宅街は丸ごと流されてしまい、一面がガレキの町と化しました。町全体が、あまりにも変わり果てた光景になったので、最初は私も途方に暮れました。             でも、時間の経過とともにガレキが片付き、お店が再開し、災害公営住宅ができ、町を歩くと住民の笑い声が聞こえるようになりました。「やっと、落ち着いた生活ができそうだな~」と思えるようになってきた頃の出来事です。

 

ある日、自宅にいた私は「家の中が殺風景だから、写真でも飾りたいな~」と思いました。しかし、震災前の家は流されてしまったため、写真やアルバムなどを含む過去の記録が、一切残っていませんでした。唯一、スマートフォンには震災前の写真データが残っていたので、家に飾れそうなものを探しました。

しかし、いざ探してみると、飾れそうな写真が全然見つかりません。データ自体はしっかり残っていたのですが、風景写真や料理の写真、加工した自撮り写真など、SNSを意識して “インスタ映え” や “かわいさ” を狙った写真ばかり。しかも、そのほとんどは最近の写真。データ容量を食う関係で、半年以上前の写真は削除済み。結局、プリントアウトして家に飾りたいと思えるような写真は一枚も見つかりませんでした。

あの時は相当悔しかったし、ショックでした。私は元々、写真を撮るのがすごく好きで、家族の中でも撮影担当でした。友人たちと比べても、撮っている写真の枚数は多かった方だと思います。でも、一番肝心な “家族” “思い出” の写真を全然撮っていなかったことに気付いたんです。

 

最近、私は周囲の人によく「写真はいっぱい撮ってくださいね」と話しています。でも、それに加えて「普段の何気ない家族の日常が分かる写真も忘れずに!」と話します。例えば、外へ出かけた時に撮ったり、家族の誕生日に撮ったり、子供の行事で撮ったり、年末年始で親戚が集った時に撮ったり…ちょっとした時に写真を撮り、それを大切にして欲しいです。

それらの写真は、今すぐには価値を感じないかもしれません。 でも、数年後か数十年後に「気付いたら宝物に変わってた!」 と思える日が、絶対に来ると思います。