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台風によって命拾いした私

2016年、熊本地震(4月14日・16日)で被災して自宅を取り壊した人から聞いた話です。家庭連合の会員の人でした。

私の自宅は、現在は平屋ですが、建てた時は2階建てでした。実は、昨年(2015年)の台風で自宅の2階部分が被害を受けました。業者にも見てもらったのですが、結局2階部分だけを撤去することになり、1階建ての平屋になってしまいました。

しかし、『平屋で寂しくなったけど、これでもう大丈夫だろう』と思った矢先に、今年(2016年)の熊本地震でまた被災してしまいました。地震の影響で自宅は倒壊寸前の状態になり、全壊判定が出たため取り壊しを余儀なくされました。『私ばかり、なぜ二度も被災するはめになるんだ…どこまで運が悪いんだろう』と何度も悔やみました。やりきれない思いでいっぱいになり、しばらくは辛い日々でした。

そんなある日、(被災した自宅の) 耐震診断をしてくれた業者の人と話す機会がありましたが、私は最初「今回は、本当に良かったですよ … お母さんは、強運の持ち主ですね!」と言わたので、その瞬間は意味が分かりませんでした。

「お宅の方は、今回の地震で被災したことで、今はもう、いつ倒壊してもおかしくない状態になっているんですよ。 …というのも、2階部分を取り壊して無い状態にしていたおかげで、かろうじて今回の地震でも、倒壊せずに済んだんですよ。もし、2階部分が残っていたとしたら、その重みによって、真下の1階にある寝室部分が完全に潰されて、お母さんは今頃天国行きになる所でしたよ … 2階部分が無かったおかげで、助かりましたね。」

それを聞いて驚きました。自宅を見ながら冷静に考えてみれば、確かにその通りだと私自身も思いました。すると、それまで抱えていた辛さや悔しさがスッと解消されいくのが分かり、不思議な感覚でした。

私の目線で見ると、去年から今年にかけて災難の連続でした。 しかし、神様の目線で見ると、災難が続く中でも私の命を助けようと必死だったのだと感じました。

自然災害の教え方

東日本大震災の被災地でボランティア活動をしている中に知り合った人から話を聞きました。普段は関東で小学校の教員をしている人でした。

私が勤めている地域では以前、道徳の授業を真面目に聞かない児童が多くて道徳教材に悩んでいた時期があります。いい教材が少ない上、教える内容も不明確だったので、授業そのものが軽視されていき、授業数も減少傾向にありました。

そんなある時、東日本大震災関連の題材を取り上げてみました。すると、普段は横を向いてしまう児童たちも前を向き、真剣な表情になりました。それまでの道徳の授業風景と比べて、教室内の雰囲気がガラッと変わったので、教員である私が逆に驚きました。

児童たちの声を聞いてみると、自然災害の怖さや辛さを感じていただけではありませんでした。家族を亡くした人が、災害を乗り越えて頑張ろうと努力する姿。家を流されてしまった人たちが、わずかな食料を互いに分け合っている姿。それらを見ながら、児童たちがそれぞれ、何かを感じ取っているように見えました。

2011年は “今年の漢字” の応募総数が過去最高になった年でした。多くの人の注目を集めた中で選ばれた漢字は、3位「震」、2位「災」1位「絆」でした。被災地の光景をテレビで見たり、津波が来た時の映像をネットやyou tubeで見たり…。メディアを通して得られる情報は、一般的に2位や3位の言葉に偏りがちです。

そんな中で最近、小学生の道徳向けに出版されているのが、この1位の言葉である “絆” に焦点を当てた教材です。児童たちが震災関連のことを勉強した時に感じ取っていたモノも、この “絆” だったように思います。

インターネット社会の波は小学生たちにも広がり、スマホを持つ児童も増えています。仮に、どこかで自然災害が発生した時、「地震で多くの建物が壊れた」とか「津波で多くの人が犠牲になった」という目に見える情報は、ネットを見れば分かります。しかし、その背後にある 人々の努力する姿 助け合う姿 などの目に見えにくい情報は、ネットを見ても分かりにくいです。

だからこそ、自然災害について教える時は、その中に潜む “絆” までを含めて教えるということを、忘れてはいけないと思います。

教員から語り部へ [後編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、中学校で教員をしていた人です。話の中で、ご自身が学んだ教訓を教えてくれました。

震災は、決して “よかったこと” ではありませんが、“きっかけ” にはなったと思います。例えば、食べたり・寝たり・人と話すなど、今まで当たり前だと思っていた日常生活が、実は当たり前じゃないことに気付いたという人は多いと思います。

私は元々、教員という仕事が好きでした。しかし、震災で娘を亡くしたことで、好きという感情だけでは前に進む力がなかなか湧きませんでした。そんな時に考えたのは、同じように傷付きながらも、入学して来る生徒たちのことでした。家族や親友を亡くしたことで深く傷付いた生徒たちのことを想えば、教員である私が、自身の悲しみだけに囚われていてはいけないと思いました。“生徒たちのために” という思いから、前に進む力が湧いてきました。

その時私は、“何々が好きだ” という気持ちには限界があると思いました。しかし、“誰々のために頑張ろう” という気持ちには限度がありませんでした。仕事や学業などで壁にぶち当たった時は、個人的な好みよりも、他者への思いやりを先立てて行動していくことが大切だと、私は思いました。

震災の翌月に入学してきた生徒たちは、他界した私の娘と同世代になります。私は、娘にしてあげたかったことを、せめて、娘の代わりに生徒たちにしてあげようと思い、生徒たち一人一人を “私の娘だ・息子だ” と思って接するようにしました。すると、どの生徒とも仲良くなれました。まるで本当の家族のように、良い関係を築くことができたんです。

最近は、大人も子供も “むかつく人は無視、気の合う人とだけ仲良くする” という付き合い方をする人が多いように思います。しかしそれでは、人ともめたり喧嘩して関係性がこじれた時に、仲直りする力・修復する力が身に付きません。“誰に対しても家族のように接する” という付き合い方をすることで、人と喧嘩した時も、仲直りして更に関係性を深められるようなコミュニケーション力を育むことが大切だと思いました。

不思議なことに、私は教員を辞めた今の方が、教員をしている気がします。日本という国は、全国どこでも被災地になり得ます。過去の災害と向き合いながらも、未来への学びにしていただけたらと思っています。

教員から語り部へ [前編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、沿岸地域の高台の上に位置する中学校で教員をしていた人です。

震災当時、私は中学校にいたのですが、津波は校舎までは届かず、生徒たちは皆無事でした。しかし、内陸に位置する小学校へ通っていた私の娘が犠牲になりました。あまりにも突然過ぎて、最初は涙も出ませんでした。娘は6年生だったので「震災があと1ヵ月待ってくれれば、私の中学校へ入学して来て、助けてあげられたのに」と、何回悔やんだか分かりません。しかし、震災翌月からはまた、新たな新入生も入学して来ます。私と同じような傷を負った生徒たちのことを想うと、私自身が立ち止まるわけにはいきませんでした。

新年度を迎えて、新入生たちが入学してきました。「もし震災が無ければ、私の娘もここにいるはずだった」と思いながらも「娘にしてあげられなかったことを、せめて新入生たちに」と思うように切り替えて、前へ進みました。この当時は、1日1日が必死でした。

すると、ある時から不思議な感覚を持つようになりました。生徒が生徒ではなく、別の存在に見えてきたんです。それは、なかなか表現しにくい感覚でしたが、一言で言うなら “命” です。生徒一人ひとりが “ただの人間” ではなく “輝く命” に見えたんです。言葉を換えれば、尊い命を与えられた輝く存在、または唯一無二の価値を持つ貴重な存在。生徒一人ひとりに対して、そう感じるようになりました。

震災4年後、私は教員を辞めました。そこで、教員生活を振り返ってみると、震災の前と後で、ある変化に気付いたんです。

教員時代、私はクラス担任をしていました。すると、同じ生徒たちと1年間を共に過ごすので、大半の生徒とは仲良くなります。 でも中には、ぶつかり合う関係のままで終わってしまう生徒や、何かしらのわだかまりが残ったまま終わってしまう生徒もいました。それが震災前です。

それに対して震災後は、心に深い傷を抱えて荒れる生徒が増えるだろう、生徒とぶつかる回数も増えるだろう、と覚悟していました。しかし、震災後の4年間を振り返ると、不仲のまま1年を終えた生徒は一人も思い浮かばなかったんです。生徒たち全員と、とても仲良くなれたんです。これは、私の教員人生にとっては大きな変化でした。

教員を辞めた後、私は語り部や講演活動を含む様々な活動に取り組むようになりました。

親の願い

東日本大震災当時に中学生だった女性の話を、震災から2年後に聞きました。

私は、震災前の時期は反抗期だったので、母と毎日のように喧嘩してました。それが落ち着き、やっと仲良くなってきた時に震災があり、母が犠牲になりました。

それから半年後、母からの手紙 が見つかり、家族みんな驚きました。震災前に、母が家族の一人ひとりに対して書いてくれていたものでした。自分宛ての箇所を読んでいると、自然と涙がこぼれました。手紙には『いっぱい手伝ってくれて、お母さんはとても感謝してました』とあり、私の気持ちを理解してくれていたと分かり、嬉しかったです。また、夢についても触れていました。読み進めると、母は私に対して、夢に向かって頑張ってほしいと願っているのが分かり、私は “ハッ” としました。

それまでの私は、母を亡くして悲しいという “自分の気持ち” だけで、いっぱいいっぱいでした。しかし、この手紙を読んだ時、初めて “母の気持ち” に気付いたんです。母は、私に対して悲しんでほしいのではなく、夢に向かって進んでほしいと願っているのだと思いました。

そこで私は、自分の夢は何かを考えてみましたが、いきなり考えたところで、すぐに見つかるはずもありません。結局、夢は思いつきませんでしたが、母のことは大好きだったと改めて思ったので、“母のようになりたい” とは思いました。そこで、普段の母の行動を思い出してみると、家の掃除や洗濯、料理、お弁当作りを毎日欠かさずやっていました。…ということは、同じことを私もやれば、少しは母に近付けるかもしれないと思いました。

翌日から私は、料理や家事を始めました。料理経験が無くて最初は大変でしたが、続けました。それからは1日も休まず、今でも毎日続けています。ただ私は、料理があまり得意ではないため、食事中に家族からダメ出しされることもよくあります。それでも続けてるせいか、最近では「お母さんに似てきたよ」「料理してる時は、お母さんにそっくりだよ」と言われることもあります。

料理をしている時は、ちょっと不思議なんですけど、天国にいる母が私の近くまで来てくれて、私のことを応援してくれるような… 元気付けてくれるような… そんな気がするんです。例えば、学校で嫌な出来事(友達とケンカしたり、テストで悪い点数を取ったり)があった日でも、家へ帰って台所に立ち、包丁を持って料理を始めると、心が落ち着いてくるんです。どこか安心できるんです。そのせいか、外で物音がすると「お母さんが帰って来たかな?」と思ってしまう時が、今でもよくあります。

手紙を読んだあの時は、夢を聞かれても答えられませんでしたが、今なら答えられます。“大好きだった母のようになりたい” それが私の夢です。

自然災害の捉え方

東日本大震災の発災当時、被災した地域の新聞社で働いていた方から聞いた話です。

震災当日、津波は新聞社の2階の床上まで届いてしまいました。 電気機器がやられ、1週間ほど印刷できない状況になりましたが、その間も紙とペンだけで手書きの新聞を発行し続けました。

震災翌日、複数の避難所の壁に新聞を張り出すと、「助かります」や「待ってたよ」という声と共に、多くの人が食い入るように読んでいました。ただ、記事の内容としては被害情報などの暗いニュースが多かったため、紙面の上段には、できるだけ良いニュースや希望的なニュースを載せるようにしました。取材中にご遺体を発見することもあったため “いつか、親しい人の不幸に遭遇するかもしれない” と、覚悟して取材しました。どんなに辛い話からも逃げず、事実と対峙しようとする姿勢が求められました。

私は、自身が被災者という立場でありながら、被災者から話を聞く立場でもあったため、様々な角度から震災を見つめました。また、新聞社という職場環境のため、良くも悪くも震災に関する様々な情報が集まり、震災と向き合う毎日でした。そんなある日、私の中で震災というものの捉え方が変わりました。私が被災した理由は、“私の運が悪かったからだ” というより、“私が託されたからだ” と捉えるようになったんです。

東日本大震災は “1000年に1度” と言われますが、その “1度” に遭遇した被災者が「なぜ今なんだよ」「運が悪かったのか?」「誰を恨めばいいんだよ」「バチが当たったのか?」「先祖が沿岸地域に街を作ったせいで、子孫の我々が痛い目にあった」と思うのは当然です。私も、被災直後は「(自然環境に対して)ここまでやるかよ」と思いました。

その一方で、「起きたことは仕方ない」「私が前を向けば、子供も笑顔になる」「震災前より良い街に変えることが供養になる」「私が努力次第で、未来の津波から子孫を救える」という捉え方をする人たちもいます。私にとっては、こういった前向きな捉え方の方がしっくりきました。

私は、震災を大きな課題だと捉えています。この課題は既に託されたので、逃げることはできませんが、向き合って取り組めば解決もできます。ただ、解決するためには、ものすごい苦労や努力が必要です。それが嫌なら、課題に取り組まなくても誰も文句は言いません。あとは自分次第です。私は使命感を持って、この課題に取り組んでいるつもりです。この1000年に1度の課題を解決すれば、1000年先の子孫までは同じ辛さを経験させなくて済むだろう。その分、未来は今より平和になるだろうという捉え方をしてます。

毎日忙しく、苦労も多いですが、使命感のような感覚があるからか、不思議と嫌にはなりません。

次の世代へ伝える仕組み

宮城県石巻市の沿岸地域に【がんばろう!石巻】と書かれた看板が立っています。2016年にこの場所を訪れた際、看板を設置した人から聞いた話です。

         「がんばろう!石巻」の看板(2016年9月16日)

3月11日、この地域は6.9mの津波に襲われました。私も自宅兼店舗を失い、避難所に身を寄せました。

数日後、落ち込んでいる友人と話しながら、ふと『がんばっぺ』と言っちゃったんですが、まるで自分自身もそう言われたような気がしたんですよ。“私も頑張らなきゃな”って思いになました。

10日後、店があった場所で何かないか探していると、がれきの下から工具箱が見つかりました。箱は泥だらけでしたが、中からはドリルなどの工具が出てくるのを見て、まるで宝物を発見したような気持ちになりました。少し希望が湧きました。家も無くなり、職場も無くなり、できること自体が限られている環境だったので “できることは全部やろう” と思いました。そこから、私なりにいろんなことに取り組んだのですが、その中の一つが看板作りでした。

         看板が設置された頃の様子(5月22日)

1ヶ月後、店があった場所に【がんばろ!石巻】の看板を設置しました。製作から完成までは5日かかりました。友人にも協力してもらい、店の周辺に流れ着いた大きめの板を店の跡地の基礎部分に取り付けて、ペンキで文字を書きました。当時は、看板周辺が一面がれきだらけで、自衛隊も遺体捜索をしている状況だったため、看板を見て疑問の声を投げかける人もいました。しかし、看板を見て手を合わせる人、『励まされた』や『勇気付けられた』と言う人もいて、やって良かったと思いました。

  看板横に設置されたツリー(2012年12月24日)
  看板横に設置された鯉のぼり(2013年5月3日)

その後、5月になると鯉のぼり、8月には七夕飾り、12月にはクリスマスツリーなど、季節に合わせていろいろな物を設置しました。毎年の3月11日や、震災から1000日ごとの節目に合わせて追悼の場を持ちました。

5年後、看板の場所が町の再開発工事に影響することから、設置場所を若干海側に移転させることになりました。ちょうど看板自体も老朽化していたため、サイズやデザインは全く同じで新しい看板を作り、設置しました。

    撤去される前の看板(2016年3月11日)
  新たに設置された2代目の看板(2016年5月1日)

この2代目の看板は、近くの中学校の生徒さんも一緒に製作しました。今後は、ペンキの塗り直しや定期的な補修作業も一緒にやりたいと考えてます。月日が流れることで震災の風化が懸念される中、この活動が 震災を未来の世代へ伝えていく仕組み の一つになればと思っています。

自然と寄り添う生き方 [後編]

東日本大震災の被災地で、農家のお父さんから聞いた話です。この人は震災前から農家を経営していて、お米を中心に複数の野菜を栽培していました。

震災後、新たにお米の無農薬栽培に取り組みました。

しかし、始めてから最初の3~4年は大変でした。今までは農薬のおかげで抑えられていた虫や雑草や病気ですが、農薬に頼らずにそれらの対処をするのは簡単ではありませんでした。全く実りが無い年もあり、苦労だけが増えたように思ってしまう時もありました。始めてから5~6年くらい経って、ようやく形になってきました。

ある時、地域の子どもたちと一緒に、うちの畑で生き物の生態調査をしました。すると、田んぼからいろんな種類の生き物が見つかるんで、子供たちも大喜びで専門家から驚かれたことがあります。無農薬栽培の成果の一つだと思い、嬉しかったです。

また、震災直後にボランティアでこの町に来たネギ農家の人と出会いました。同じ農業仲間ということで話が深まる中で「この地域の気候なら、おいしいネギが育ちますよ」と、自身の畑のことや栽培のノウハウを教えてくれました。震災前は、この町でネギを生産している農家が無かったので、聞く話の一つ一つが新鮮でした。この縁がキッカケで、この町で前例の無かったネギ栽培にも挑戦しました。うちで栽培している他の野菜と似た要領かと思いましたが、取り組んでみると勝手が全然違い、最初は慣れませんでした。しかし「この気候ならいけるよ」と勧められただけあって、要領を掴めば安定して育ってくれるようになりました。

それから数年後、気付けばネギ栽培は、うちの畑でメインに育てる農作物になっていました。すると徐々に、町内にもネギを栽培する農家が増えてきて、町からも一つのブランドとして取り上げられるようになりました。それ以外にも、お米の無肥料栽培、ワイン用のブドウ栽培、漢方で使用する薬草の栽培など、日々挑戦を続けています。

一方、農業に関心があるからやりたい・学びたい人たちを受け入れる農業体験プログラムも作りました。

一般的な農業体験は、種を植えてから収穫するまでの全工程を体験しようと思えば、半年~1年といった長い期間を必要とします。短い期間では、生産工程の一部分しか体験できないからです。これが、農業体験の短所とも言えますが、一通り経験するのに時間がかかるんですね。手軽さが無いんです。しかし、うちの農業体験は少し違います。

参加者はまず、自身で畑を耕して種を植えて水をあげる工程を行いつつ、以前の参加者が植えた作物を収穫して出荷する工程も行います。これを繰り返すことで、参加者は常に、自分が植える作物の最初の工程と、以前の参加者が植えた作物の最後の工程を同時に経験するんです。

この形は、“次の参加者のためを想って私が種をまく” という意味を込めて “恩送りファーム” と呼んでいます。そのため震災後、最初は “ボランティア” としてこの町を訪れた人が、次は農業体験の “参加者” として町を再び訪れる、というケースもあります。

震災後は、本当にいろんなことがありました。一連の出来事で学んだのは、自然との向き合い方でした。仲良く付き合いたいと思っていた私は、例え苦労が増えるとしても、自然に寄り添う生き方を選びました。自然と人間は切っても切り離せない関係です。自然は時によって、人を生かしもすれば殺しもしますが、どちらに転ぶかは人間次第です。私は多くの人に、“自然に対する良き向き合い方” を見つけていただけたらと思っています。

自然と寄り添う生き方 [前編]

東日本大震災の被災地で、農家のお父さんから聞いた話です。この人は震災前から農家を経営していて、お米を中心に複数の野菜を栽培していました。

東日本大震災をきっかけに、うちの畑はもちろん、この町の農業も大きく変化しました。

震災前、元々この畑では、お米を栽培する際に農薬を使ってました。しかし、毎年使い続ける内に、害虫も徐々に強くなってきて農薬の効きが弱くなり、それに負けじと農薬を散布する回数がどんどん増えていきました。大量の農薬を吸収して収穫されたお米を食べながら “お米と言うより農薬を食べてるんじゃないか?” と思う時もありました。大量の農薬は、大地に染み込んで他の農作物にも影響したり、川を伝って海に広がると漁業などの他業種にも影響するので、環境に良くないです。

そんな時に震災がありました。この畑は少し内陸にあったので津波は大丈夫でしたが、揺れはすごかったです。揺れが収まっても、生活インフラは止まったままでした。すると、近隣住民たちが各家庭に備蓄していた米を持ち寄って集会所に集まり、お米を炊いて、おにぎりをたくさん作って配りました。早くも、震災当日の夕方には炊き出しをスタートさせたんです。この炊き出しがあったおかげで震災翌朝、自衛隊が来る前から、消防団員数十名が救助活動を展開できたんです。

この時は、お米の大切さを身に染みるほど痛感しました。自然の力は、農作物を通じて人を生かしもすれば、自然現象を通して人を殺しもするのだと思い、“自然との向き合い方” を考えさせられました。 そこで、自然とケンカしたり、力で押さえつけようとするのではなく、私は “自然と仲良く付き合いきたい” と思いました。この出来事が、その後の自分自身の農法を見直すキッカケにもなりました。

その一方で、震災直後は全国から多くの人たちがこの町の支援に駆け付ける中で、様々な人たちとの出会いがありました。例えば、農業があまり盛んではない地域の人で「うちも米農家で、ササニシキを無農薬で作ってるんですよ!」という関西のお米農家の話、ネギの生産が有名な地域の人で「この地域の気候なら、おいしいネギが育ちますよ!」とネギ栽培のノウハウを教えてくれた関東のネギ農家の話など、聞きながら可能性を感じました。

更に震災後、この町が復興の方針として打ち出したのは「循環型の町づくり」でした。これを機に、農薬をできるだけ使わない農法に変えれば、“環境にも優しいし町の復興にも貢献できる” と思いました。様々な人たちとの出会いを通して意欲もわいてきたので、新しく無農薬栽培への挑戦をスタートしました。

〔後編へ続く〕

私の良心の望み

東日本大震災の時、津波に流された経験を持つお母さんから聞いた話です。

あの日、私は津波が来た時、私は逃げ切れずに流されちゃったんです。でも、山の麓の流れが穏やかな場所に流されたおかげで、自力で木につかまることができて奇跡的に助かったんです。

急いで山の上の高台へ逃げようと2、3歩踏み出した時、後ろから「たすけてくれ~!」って声が聞こえたので “えっ?” と思い、津波の方を振り返ると、流されてくる人が3人見えました。木の枝を伸ばせば届きそうな近い距離に流されて来ましたが、津波の流れが悪く、自力で助かるのは難しそうでした。私は直感的に、   “すぐ救出しなきゃまずい” と思い、助けに行こうとしました。

しかし、私は一瞬迷いました。雪が降る中、津波で一度流されてしまった私の体は、冷え過ぎて震えてました。体の節々も痛く、息も切れて、人を助けるだけの体力が残っていないと思ったので “下手したら 、助ける側の私が逆に流されるかもしれない” と、頭をよぎりました。

その時、「ゴォーーーー」という音が聞こえてきました。   海を見ると、更に高い津波が迫って来て “この場所にいたら、今度こそ助からない” と思ったんです。考えてる余裕はありませんでした。私は山の方を向いて、必死に津波から逃げました。その後も「助けてくれ~」と何度も聞こえましたが、聞こえない “フリ” をしました、無視したんです。

やっとの思いで津波が来ない高さまで登り、私は助かりました。その後、避難所で家族と再会できました。私は家族や友人に、自身の行動をありのまま話しました。             子供からは「お母さんが助かって良かったよ!」と何回も言われ、友人は「あなたが無事で何よりだよ」と気遣ってくれるばかりで、責められるようなことは無かったです。

それから1年半後、がれきは町からほとんど消え、お店もだいぶ再開して、自宅の修理も終わりました。落ち着いた日常に戻る中で気持ちも徐々に落ち着いてきたのですが、誰かから責められているような感覚は、私の中からずっと抜けませんでした。    そこで “自分は一体、誰から責められているのか?” を考えてみたところ、意外にも “私自身だったのかもしれない” と思いました。1年半前、あの3人から助けを求められた時、助けに行けず、逃げてしまった自分自身の “心の弱さ” そして “勇気の無さ” を、私自身の良心が責め続けていたのだと気付きました。

今回の出来事を通して、人は自分の為だけに生きていると、一番強く残る後味は “辛さ” だと身に染みました。だからもし、誰かの助けになるならば、自分の身が傷付いても行動したい。それが、生き残らせてもらった私にできることであり、良心が望んでいることでもあると思います。