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私が生き残った意味

東日本大震災で被災した人から聞いた話です。震災当時は60歳で、仕事を定年退職されたばかりの方でした。

あの日、私は自宅で被災しました。地震が収まった後、私はすぐに保育園にいた孫を迎えに行きました。自宅へ戻り、残っている家族を連れて避難所へ行こうと荷物を準備していた時、津波に襲われました。津波の圧倒的な力に成すすべなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で必死にもがきました。他の部屋にいる妻や孫が気がかりでしたが、助けに行く余裕はありませんでした。

何時間が経過したか分かりませんが、津波の勢いは落ち着いて、静かなプールのような状態になったのが分かると、私はすぐに家族を探しました。その時はもう夜中で視界は悪かったですが、流されたであろう場所を探し回っていると、息を引き取った妻を見つけました。

しかし、引き上げようとすると上手くいきません。妻の左手が何かに引っ掛かっているようでした。妻の左手の先をよく見てみると、左手で何かを必死に掴んでいるように見えました。そこで、妻の左手の先にあったがれきを片付けてみると、そこには息を引き取った孫の姿がありました。妻の左手は、孫の手をしっかり掴んでいたんですよ。その光景を見ながら「おまえは、命を落とした後もずっと孫を守り続けてくれたんだな…」と、込みあげてくる想いがありました。でも、不思議と涙は出ませんでした。もう、あまりにも悲し過ぎたからか、不思議と涙は全く出なかったです。人間は、本当に悲しくなると涙も出なくなるんだな…と、思いました。

その後、孫が通っていた保育園の園児たちは「先生に連れられて避難したおかげで、皆助かりました」と聞きました。それを聞いた私は「私が孫を保育園へ迎えに行かなければ、孫は死なずに済んだんだ」「どうして迎えに行ってしまったんだ?」「孫を殺したのは私だ」「私なんかが、なぜ生き残ったんだ?」と何千回、何万回悔やんだか分かりません。

震災直後は、何に対してもやる気が出ませんでした。出てくる想いは後悔しかなかったです。しかし、1~2ヶ月くらい経った頃、転機がありました。

ある日、被災した街中で、ある光景を目にしました。私が車で街中を走りながら赤信号で止まった時、ふと道路脇の歩道を見ました。すると、がれきが散乱する中、足元に気をつけながら街中を歩いている母親と子供の姿が目に入りました。お母さんに手を引かれる子供が元気そうに、でもちょっと不安そうな表情で歩いていました。その光景を見た時、手を引かれて歩く子の姿が、まるで自分の孫のように見えたんです。もし、自分の孫が生きていたとしたら、この子のように、不安でいっぱいな日々を送っていただろうな…と思ったんです。その時「こういう子供のために、何かしたいな…」という気持ちが芽生えたんです。

それ以降、外出する時は自然と子供に気を配るようになりました。すると皆、何かしらの不安を抱えていそうで、どこか辛そうな表情をしているように見えました。そして、私は徐々に「孫にしてあげれなかったことを、こういう子供たちにしてあげれないものか?」「こんな自分でも、助けになれるんじゃないか?」と、少しづつ前向きなことも考えるようになりました。

この頃は、まだ仮設住宅ができる前でした。避難所では人が溢れて大変なのに、住む場所自体が探しても見つからず、困っている人が多かった時期です。そこで、私はいろいろと考え抜いた末に、当時自分が所有していた15件ほどの貸家をリフォームして、格安で貸してあげることにしました。

しかし、一口にリフォームと言っても簡単ではありませんでした。貸家も全て屋根の高さまで津波で被災していたため、被害が小さかった家でも1ヶ月程、全ての家のリフォームが終わるまでは1年近くかかりましたが、何とか形になりました。件数は限られていたため、小さな子供をもつ母親や生活に困っていそうな家族を優先的に入れました。

入居の際に挨拶に行くと、いろんな家庭がいました。入居する家が早く見つかったことに感動して、家族皆が泣きながら挨拶した家庭。入居できたことがあまりにも嬉しくて、手が痛くなるくらい固い握手を交わしてきた家庭。入居できた安心感で緊張の糸がゆるんだのか、号泣する家庭もいました。いずれにしても、皆さん喜んでくれました。その姿を見ながら「私が生き残った意味は、これかもしれない」と思ったんです。

仕事も定年を迎えて、ちょうど自由な時間が増えたところです。私は元々、定年後は自分の好きに生きようと思っていました。でも今は、もう少し世のため人のために生きて、天国にいる妻や孫に見られても、恥ずかしくない人生にしたいです。

夫婦の約束

東日本大震災の被災地域で、焼きそば屋さんの店長さんから話を聞きました。震災当時は、石巻市内の沿岸地域で中華料理店(店舗兼自宅)を、夫婦二人で切り盛りしていました。

震災の時は、お店の営業時間中でした。お客さんを避難させるまでは良かったのですが、私自身が逃げようとした時、津波にのまれちゃったんですよ。“あっ”という間に体を持って行かれました。この町を襲った津波は7mだったようです。何とか水面に顔を出して、流れてきた柱や家の屋根につかまりました。さすがにあの時は『俺はもう死ぬんだな…』と思いましたね。どのくらい流されたか分かりませんが、何とか助かったんです。

急いで高台の上へ移動して『何とか助かったか…』と思いましたが、その時既に、妻の姿はどこにも見えませんでした。辺りを探しても見当たらず、私は海へ戻って妻を探そうと思いましたが、お腹が痛み出して苦しくなりました(当時は、津波の水を飲んでお腹を痛めただけだと思っていましたが、後で病院へ行ったら肋骨が三本折れていました)。更に、工場から漏れた油が何かに引火したのか、津波の上が一面火の海になって近付けなくなり、結局妻を探し回ることができませんでした。

津波が引いた後、自分の店を見に行きました。すると、津波でほとんどの物が流された上に、火災になって店全体が真っ黒こげになり、店そのものが原形を留めていませんでした。結局、この場所で津波にのまれる直前に聞いた「お父さん、津波が来たど〜」が、妻の最後の声でした。妻は、未だに見つかっていません。

震災から10日後位に店を片付けていた時、がれきの中からヘラ(焼きそばを作る時に使う調理器具)が二枚出てきたんです。他の調理器具は、火災のせいで全て真っ黒焦げになっていたにも関わらず、不思議と、この二枚のヘラだけは全く焦げておらず、きれいな状態で見つかりました。しかも、そのヘラをよく見たら、私のではなく、妻の愛用のヘラだったんです。そこに気付いた時は、まるで妻から励まされているような感じがしました。そのヘラを見た娘からは「お母さんが、また焼きそばを作れって言ってるんじゃない?」と言われました。そこで、震災前に妻と交わしていた、ある “約束” を思い出したんです。

「これからの二人の人生で、どんな困難があっても、辛いこと、嫌なことがあっても、焼きそば屋さんだけは絶対に続けよう。おいしい焼きそばを通して、日本中の人たちを笑顔にしようね!」

過去を振り返りながら、下を向いてるヒマは無いと思いました。震災後、この町の人たちは皆、顔から笑顔が消えていました。おいしい焼きそばを食べて、もう一度笑顔を取り戻してもらいたかったです。

そんな時に「B-1グランプリに出てみないか?」というお誘いがありました。以前から妻とも「参加してみたいね~」と話してたのを思い出して『よ〜し、やってやるか!』と、少しづつですが、前に進む力が湧いてきました。

2011年11月に開催されたB-1グランプリに出店しました。全国から集まって来るたくさんの来場者たちが、「宮城県から来た」というだけですごく応援してくれて、私自身も驚きました。   (第6回 B-1グランプリは2日間で50万人以上が来場し、60団体以上が参加する中で、店長の焼きそば屋は6位に入賞した。)

この頃私は、自分の中でも “一つのけじめ” をつけなきゃならないと思っていました。そこで、妻はまだ行方不明でしたが、B-1グランプリの翌月には葬儀をあげたんです。普通に考えたら、行方不明者の葬儀をするって変じゃないですか、本当に死んだのか分からないわけですから。でも、今回の震災は被害が大き過ぎたから、自衛隊の捜索活動が全て終了した後も行方不明者数は多いままで、私の近所でも行方不明者の葬儀をする人は多かったです。(2020年1月時点で、宮城県内の行方不明者は1200人以上)

その後、資金を貯めてキッチンカーを購入して改造し、2012年7月に焼きそば屋を再開しました。今度は移動販売車にしたから、地元に限らず、どこへでも出張販売できるようになりましたよ。

石巻焼きそばは、この辺り(石巻市近隣)だとみんな知ってるけど、県外は知らない人が多いじゃないですか。特に、店を再開した当初は、関東や関西のイベントやお祭り会場へ行くと「“石巻焼きそば” って…何ですか?」という反応が多かったですよ。でも、“珍しい名前” と “被災地から来た” というのが相まってか、関心を持ってくれる人がすごく多くて、嬉しかったですね。

元気付けようと思って現地へ行ったつもりが、逆に元気付けられて帰って来るような日もありました。でも、それだと妻との約束は守れないので、これからは笑顔をもらう以上に、届ける側になりたいと思っています。

震災直後の大変だった時期に応援してくれた全国の皆さんには本当に感謝してるので、“焼きそば” を通して少しでも恩返しできればと思っています。私にとっては、まだまだこれからです。

守ってみせますよ、妻と交わした約束だからね。

校長先生の一番の仕事

2016年3月11日、東日本大震災によって被災した小学校で、校長先生から震災当時の話を伺いました。震災以降、宮城県は3月11日を「みやぎ鎮魂の日」と定めたため、石巻市内では小学校が休みとなっています。そのため、この日は平日でしたが、校内は静かに時間が流れていました。

〔2016年3月11日 石巻市内の沿岸地域〕

震災当時、私は今とは別の小学校の校長でした。あの日は、すごい揺れでした。地震と聞くと、普通は数秒程度の揺れをイメージしますが、あの時は3分位揺れが続きました。校舎は沿岸地域に位置していたため被災しましたが、校舎内の児童たちは全員避難できました。

でも実は、助けられなかった児童が1名いたんです。校外にいた子でした。津波の引き波で流されていった家の2階から、あの子が助けを求める声を聞いたという人もいましたが、その後、助かりませんでした。それ以来、私は校長としてあの子を助けられなかったことが、ずっと悔やまれていてですね。今日に至るまで、あの子のことを想わなかった日は1日もありませんでした。震災前は、朝に私が校舎の前で児童たちを迎えていた時は「おはようございます!」と、人一倍元気な声で挨拶をする子でした。

震災2年後、あの子宛てに手紙を書いて、天国に向かって読み上げました。すると、手紙を読んでいる最中、あの子から逆に励まされているような、不思議な感覚になりました。そして、“悔やみ続けるだけではいけない。震災を乗り越えた児童たちのためにも、私自身がもっと頑張らなきゃいけない” と思えたんです。

私は震災後、移動になってこの小学校へ来たのですが、ここへ赴任して驚いたことがあります。ここも被災した小学校だったということです。震災当時は校舎自体も床上1m位まで浸水し、多くの児童が犠牲になった小学校でした。そのことを知った時、不思議な縁を感じました。まるで、やり直すチャンスをもらったような …そんな気がしたんです。

ここでも、児童たちが負っている心の傷は様々でした。例えば、遠足で海が見える場所へ行く日は学校に登校できなかったり。余震があると、次の日から学校を休んだり。普段から体調不良で休む日が多かったり。登校できても授業には出れず保健室で休みがちになったり。毎月11日になると辛い出来事を思い出してしまう記念日反応にみまわれたり…。震災から5年が経過して、ある程度は落ち着いてきましたが、ゼロにはなっていません。

震災当時に1年生だった児童たちも、今月で卒業になります。来月からはもう、この小学校で震災を直接体験した児童がいなくなります。そういった意味では、学校としては一つの節目を迎える時期だと感じています。震災のことを言葉や映像でしか知らない世代に移り変わっていく中で、震災というものを次の世代へ如何に伝えたらよいか…。今後の大きなテーマだと思っています。

「校長先生の仕事って何ですか?」

児童たちや郊外の人から、私は時々こんな質問をされます。震災以降は、この質問に答える時、必ず入れるフレーズがあります。

「一番の仕事は、復興です。」

取り組んでいること一つ一つが、最終的には、そこへ繋がるように感じています。

心霊写真を撮りたい私

東日本大震災の被災地でボランティア活動をしていた時、近所に住むお母さんから聞いた話です。このお母さんは、震災で家族を一人亡くしていました。

震災後の半年間は、近所のお母さんたちと井戸端会議をすると、幽霊の話題ばかりでした。

「あそこのスーパーの店内に、カートを引いてるおばあさんの霊がいたらしいわよ…」

「あっちのお店は、あまりにも頻繁に出るから、業者の人も怖がっちゃって、店内の改装工事が進まなくなったったみたいよ…確かに最近、工事の音がしないわね…」

「あの国道は、よく出るって聞くでしょ。その出方なんだけど、道路の真ん中に立ってることが多いらしくて、慣れない人が目撃すると本物の人間と勘違いしちゃって、警察へ電話する人が多いみたいよ…まあ、無理もないわよね…」

「あっちの地域は、津波で街灯がほとんど流されちゃったでしょ。そのせいか、夜は街灯の代わりに、火の玉がたくさん出るみたいよ…」

「あの地域では『運転中に人を引いちゃったんですけど、誰もいなくて…こういう時は、どうしたらいいですか?』っていう通報が多過ぎて、警察も幽霊のことも説明慣れしてるみたいよ…」

心霊スポットって言葉を使うのであれば、あの頃は町全体が心霊スポットになっていたと思います。

例えば、日常生活を送る中で「ここは心霊スポットだよ!」と聞くと、よっぽどのモノ好きでない限り「近付きたい!」と言う人はいないと思います。でも、この地域では好き嫌いに関係無く、積極的に心霊スポットへ行く人が結構いました。

なぜか分かりますか?

今なら私も、行ってしまう人の気持ちがよく分かります。

震災当時、私は父を亡くしました。震災前は家族写真を撮る時、父を中心に皆が並んで撮っていましたが、震災後は父の場所を詰めて撮るようになりました。そんな時、幽霊の話題をよく耳にするようになった私は、家族写真を撮る時、わざと父一人分のスペースを空けて撮るようになりました。

心境は、いたってシンプルです。幽霊でもいい、ぼや〜っとでもいい、せめて顔だけでもいいから出て、写真に写ってほしい。心霊写真になってほしいと思うんです。でも残念なことに、そういう期待を持って写真を撮る時に限って、何枚撮っても出ないんですよ。それを見ながら「今回も出なかったね〜」って、ちょっと寂しそうに家族とよく話しました。

私みたいに “出てほしい” と思っている人の話も耳にしました。

「出るって噂の多い場所へ、毎日のように通ってるみたい…」

「亡くなった家族の食事も食卓へ準備しちゃうみたい…」

その後は、時間の経過と共に幽霊の噂も落ち着いて、最近はもう、ほどんど聞かなくなりました。

心霊スポットと聞くと、一般的には怖い、近付きたくない、苦手と思う人が多いです。でも、この地域では逆に嬉しい、会いたい、出てほしいと思う人も多いです。私自身も、前者から後者に変わった一人です。亡くなった人に対する愛情があれば、嫌だと思ってた心霊現象も “起きてほしい” と願うようになるのだと分かりました。

体の傷と心の傷

2011年9月、東日本大震災の被災地でがれき撤去をしていた時、依頼者のお母さんから聞いた体験談です。

震災当時、私は自宅にいたのですが、大きな揺れに襲われて焦りました。町内放送で津波警報のサイレンや「避難してください」のアナウンス響き渡る中、自宅が海のすぐ側だった私は、津波の危険を感じたからです。

すぐに避難しようとしましたが、小さな子供が二人いたため、歩いての避難は難しいと思い、車で避難することにしました。車の後ろの席に子供たちを乗せながら町会放送を聞いていると、最初は「3mの津波が予測されますので…」から始まり、気付いたら「6mの津波…」「10m以上の津波…」と、コロコロ変わるアナウンスを聞きながら困惑しました。一方、避難先で必要な最低限の物を車内へ積んでいる内に、避難も遅くなってしまいました。

結局、車で家を出る時は、もう周囲の人たちがほとんど逃げた後でした。でも、そのおかげで車の渋滞はほとんど無かったため、すぐに避難できそうだと思い安心しました。

家を出発して、海から遠ざかる方向へ車を走らせた時です。ふと、社内のルームミラーから後方を見ると、車のはるか後ろの方から、津波が勢いよく迫って来るのが見えました。その瞬間、私は自分の目を疑いました。一瞬時が止まったような感覚に陥りました。その後、 “ハッ” と我に返ったように全力でアクセルを踏む自分がいました。

車がぐんぐん加速する中、道路横の住宅街を一瞬だけ “チラッ” と見た時、道路脇の家の二階の窓からおじさんが体を乗り出している光景に気付きました。すると、そのおじさんと目線が合い、こちらを見て必死に叫びました。

「助けてくれー!」

その瞬間、時が止まったかのようでした。

えっ!?どうしたらいいの??

あらゆる想いが頭の中を交錯しました。

あのおじさんも助けなきゃ...おじさんを車に乗せても、ギリギリ逃げ切れるんじゃないか...でも、今ブレーキを踏んだら、おそらく津波に追いつかれる...母親として、この子供たちは絶対に守りたい...でも、あのおじさんを見捨てることもできない...いっそのこと、私と子供たちも、一緒にこのお宅の二階に避難しようか...

いろんな想いが交錯しても、私に与えられた選択肢はハッキリしていました。

ブレーキを踏むか?アクセルを踏み続けるか?二つに一つ。  どちらも踏みたいが、片方しか踏むことはできない。

一瞬の判断を迫られた私は、考える間もなく、直感で行動していました。

気付いた時、私が踏んでいたのはアクセルだった...

しかし、車よりも津波のスピードの方が速く、徐々に追い付かれて来ました。やがて、ルームミラーとサイドミラーは両方共、一面に津波の水しぶきしか見えなくなり “まずい” と思いました。

その時、車が川に差し掛かり、橋を渡って向こう岸へ移れました。すると、この川の川幅が広かったおかげで、津波が全て川の方へ流れ落ちてくれて、私と子供たちは助かりました。

その後、無事に避難先へ到着しました。車から降りて荷物を降ろしていると、車の後ろ半分くらいが津波の水しぶきを受けて濡れていることに気付き、ギリギリで逃げ切れたのだと分かりました。子供たちも無事だったので、母親としての責任を果たせた気がして、ホッとしました。

数日後、おじさんのことが気になっていた私は、おじさんの家を訪ねたのですが、その場所に家は残っていませんでした。後日、その地域に住んでいた方たちと話す中で、おじさんが亡くなったことを知りました。

半年後、おじさんから聞いた「助けてくれ!」 という叫び声は、今でも私の耳から離れません。こちらを見ながら深刻に助けを求める表情が、私の脳裏に焼き付いています。

あの時に “アクセルを踏んだこと” は、二人の子供に責任を持つ “母親” の判断 として、正しかったのかもしれません。しかしその行為は、見方を変えると “ブレーキを踏めなかったこと” にもなります。それは、助けを求められた一人の “人間” の判断 として、正しかったと言えるのだろうか…

当時は津波から逃げ切れたことで、周囲からは「良かったですね」とか「奇跡的ですね」と言われることが多かったです。しかし、助かった側からすると、両手放しで喜べたわけではありませんでした。

この時の私は、体には傷ひとつ負いませんでしたが、心に傷を負った状態だと感じました。

一般的に、体に付いた傷は目立ちますが、時間の経過と共に治ります。病院へ行けば薬ももらえて、より早く、きれいに治ります。その一方で、心の傷は目立たず、他者が見ても気付きません。しかし、時間が経過しても治りは悪いし、完治はしません。薬が何かも、よく分かりません。

心の傷は、体の傷より辛い症状なのだと分かりました。

台風によって命拾いした私

2016年、熊本地震(4月14日・16日)で被災して自宅を取り壊した人から聞いた話です。家庭連合の会員の人でした。

私の自宅は、現在は平屋ですが、建てた時は2階建てでした。実は、昨年(2015年)の台風で自宅の2階部分が被害を受けました。業者にも見てもらったのですが、結局2階部分だけを撤去することになり、1階建ての平屋になってしまいました。

しかし、『平屋で寂しくなったけど、これでもう大丈夫だろう』と思った矢先に、今年(2016年)の熊本地震でまた被災してしまいました。地震の影響で自宅は倒壊寸前の状態になり、全壊判定が出たため取り壊しを余儀なくされました。『私ばかり、なぜ二度も被災するはめになるんだ…どこまで運が悪いんだろう』と何度も悔やみました。やりきれない思いでいっぱいになり、しばらくは辛い日々でした。

そんなある日、(被災した自宅の) 耐震診断をしてくれた業者の人と話す機会がありましたが、私は最初「今回は、本当に良かったですよ … お母さんは、強運の持ち主ですね!」と言わたので、その瞬間は意味が分かりませんでした。

「お宅の方は、今回の地震で被災したことで、今はもう、いつ倒壊してもおかしくない状態になっているんですよ。 …というのも、2階部分を取り壊して無い状態にしていたおかげで、かろうじて今回の地震でも、倒壊せずに済んだんですよ。もし、2階部分が残っていたとしたら、その重みによって、真下の1階にある寝室部分が完全に潰されて、お母さんは今頃天国行きになる所でしたよ … 2階部分が無かったおかげで、助かりましたね。」

それを聞いて驚きました。自宅を見ながら冷静に考えてみれば、確かにその通りだと私自身も思いました。すると、それまで抱えていた辛さや悔しさがスッと解消されいくのが分かり、不思議な感覚でした。

私の目線で見ると、去年から今年にかけて災難の連続でした。 しかし、神様の目線で見ると、災難が続く中でも私の命を助けようと必死だったのだと感じました。

自然災害の教え方

東日本大震災の被災地でボランティア活動をしている中に知り合った人から話を聞きました。普段は関東で小学校の教員をしている人でした。

私が勤めている地域では以前、道徳の授業を真面目に聞かない児童が多くて道徳教材に悩んでいた時期があります。いい教材が少ない上、教える内容も不明確だったので、授業そのものが軽視されていき、授業数も減少傾向にありました。

そんなある時、東日本大震災関連の題材を取り上げてみました。すると、普段は横を向いてしまう児童たちも前を向き、真剣な表情になりました。それまでの道徳の授業風景と比べて、教室内の雰囲気がガラッと変わったので、教員である私が逆に驚きました。

児童たちの声を聞いてみると、自然災害の怖さや辛さを感じていただけではありませんでした。家族を亡くした人が、災害を乗り越えて頑張ろうと努力する姿。家を流されてしまった人たちが、わずかな食料を互いに分け合っている姿。それらを見ながら、児童たちがそれぞれ、何かを感じ取っているように見えました。

2011年は “今年の漢字” の応募総数が過去最高になった年でした。多くの人の注目を集めた中で選ばれた漢字は、3位「震」、2位「災」1位「絆」でした。被災地の光景をテレビで見たり、津波が来た時の映像をネットやyou tubeで見たり…。メディアを通して得られる情報は、一般的に2位や3位の言葉に偏りがちです。

そんな中で最近、小学生の道徳向けに出版されているのが、この1位の言葉である “絆” に焦点を当てた教材です。児童たちが震災関連のことを勉強した時に感じ取っていたモノも、この “絆” だったように思います。

インターネット社会の波は小学生たちにも広がり、スマホを持つ児童も増えています。仮に、どこかで自然災害が発生した時、「地震で多くの建物が壊れた」とか「津波で多くの人が犠牲になった」という目に見える情報は、ネットを見れば分かります。しかし、その背後にある 人々の努力する姿 助け合う姿 などの目に見えにくい情報は、ネットを見ても分かりにくいです。

だからこそ、自然災害について教える時は、その中に潜む “絆” までを含めて教えるということを、忘れてはいけないと思います。

教員から語り部へ [後編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、中学校で教員をしていた人です。話の中で、ご自身が学んだ教訓を教えてくれました。

震災は、決して “よかったこと” ではありませんが、“きっかけ” にはなったと思います。例えば、食べたり・寝たり・人と話すなど、今まで当たり前だと思っていた日常生活が、実は当たり前じゃないことに気付いたという人は多いと思います。

私は元々、教員という仕事が好きでした。しかし、震災で娘を亡くしたことで、好きという感情だけでは前に進む力がなかなか湧きませんでした。そんな時に考えたのは、同じように傷付きながらも、入学して来る生徒たちのことでした。家族や親友を亡くしたことで深く傷付いた生徒たちのことを想えば、教員である私が、自身の悲しみだけに囚われていてはいけないと思いました。“生徒たちのために” という思いから、前に進む力が湧いてきました。

その時私は、“何々が好きだ” という気持ちには限界があると思いました。しかし、“誰々のために頑張ろう” という気持ちには限度がありませんでした。仕事や学業などで壁にぶち当たった時は、個人的な好みよりも、他者への思いやりを先立てて行動していくことが大切だと、私は思いました。

震災の翌月に入学してきた生徒たちは、他界した私の娘と同世代になります。私は、娘にしてあげたかったことを、せめて、娘の代わりに生徒たちにしてあげようと思い、生徒たち一人一人を “私の娘だ・息子だ” と思って接するようにしました。すると、どの生徒とも仲良くなれました。まるで本当の家族のように、良い関係を築くことができたんです。

最近は、大人も子供も “むかつく人は無視、気の合う人とだけ仲良くする” という付き合い方をする人が多いように思います。しかしそれでは、人ともめたり喧嘩して関係性がこじれた時に、仲直りする力・修復する力が身に付きません。“誰に対しても家族のように接する” という付き合い方をすることで、人と喧嘩した時も、仲直りして更に関係性を深められるようなコミュニケーション力を育むことが大切だと思いました。

不思議なことに、私は教員を辞めた今の方が、教員をしている気がします。日本という国は、全国どこでも被災地になり得ます。過去の災害と向き合いながらも、未来への学びにしていただけたらと思っています。

教員から語り部へ [前編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、沿岸地域の高台の上に位置する中学校で教員をしていた人です。

震災当時、私は中学校にいたのですが、津波は校舎までは届かず、生徒たちは皆無事でした。しかし、内陸に位置する小学校へ通っていた私の娘が犠牲になりました。あまりにも突然過ぎて、最初は涙も出ませんでした。娘は6年生だったので「震災があと1ヵ月待ってくれれば、私の中学校へ入学して来て、助けてあげられたのに」と、何回悔やんだか分かりません。しかし、震災翌月からはまた、新たな新入生も入学して来ます。私と同じような傷を負った生徒たちのことを想うと、私自身が立ち止まるわけにはいきませんでした。

新年度を迎えて、新入生たちが入学してきました。「もし震災が無ければ、私の娘もここにいるはずだった」と思いながらも「娘にしてあげられなかったことを、せめて新入生たちに」と思うように切り替えて、前へ進みました。この当時は、1日1日が必死でした。

すると、ある時から不思議な感覚を持つようになりました。生徒が生徒ではなく、別の存在に見えてきたんです。それは、なかなか表現しにくい感覚でしたが、一言で言うなら “命” です。生徒一人ひとりが “ただの人間” ではなく “輝く命” に見えたんです。言葉を換えれば、尊い命を与えられた輝く存在、または唯一無二の価値を持つ貴重な存在。生徒一人ひとりに対して、そう感じるようになりました。

震災4年後、私は教員を辞めました。そこで、教員生活を振り返ってみると、震災の前と後で、ある変化に気付いたんです。

教員時代、私はクラス担任をしていました。すると、同じ生徒たちと1年間を共に過ごすので、大半の生徒とは仲良くなります。 でも中には、ぶつかり合う関係のままで終わってしまう生徒や、何かしらのわだかまりが残ったまま終わってしまう生徒もいました。それが震災前です。

それに対して震災後は、心に深い傷を抱えて荒れる生徒が増えるだろう、生徒とぶつかる回数も増えるだろう、と覚悟していました。しかし、震災後の4年間を振り返ると、不仲のまま1年を終えた生徒は一人も思い浮かばなかったんです。生徒たち全員と、とても仲良くなれたんです。これは、私の教員人生にとっては大きな変化でした。

教員を辞めた後、私は語り部や講演活動を含む様々な活動に取り組むようになりました。

親の願い

東日本大震災当時に中学生だった女性の話を、震災から2年後に聞きました。

私は、震災前の時期は反抗期だったので、母と毎日のように喧嘩してました。それが落ち着き、やっと仲良くなってきた時に震災があり、母が犠牲になりました。

それから半年後、母からの手紙 が見つかり、家族みんな驚きました。震災前に、母が家族の一人ひとりに対して書いてくれていたものでした。自分宛ての箇所を読んでいると、自然と涙がこぼれました。手紙には『いっぱい手伝ってくれて、お母さんはとても感謝してました』とあり、私の気持ちを理解してくれていたと分かり、嬉しかったです。また、夢についても触れていました。読み進めると、母は私に対して、夢に向かって頑張ってほしいと願っているのが分かり、私は “ハッ” としました。

それまでの私は、母を亡くして悲しいという “自分の気持ち” だけで、いっぱいいっぱいでした。しかし、この手紙を読んだ時、初めて “母の気持ち” に気付いたんです。母は、私に対して悲しんでほしいのではなく、夢に向かって進んでほしいと願っているのだと思いました。

そこで私は、自分の夢は何かを考えてみましたが、いきなり考えたところで、すぐに見つかるはずもありません。結局、夢は思いつきませんでしたが、母のことは大好きだったと改めて思ったので、“母のようになりたい” とは思いました。そこで、普段の母の行動を思い出してみると、家の掃除や洗濯、料理、お弁当作りを毎日欠かさずやっていました。…ということは、同じことを私もやれば、少しは母に近付けるかもしれないと思いました。

翌日から私は、料理や家事を始めました。料理経験が無くて最初は大変でしたが、続けました。それからは1日も休まず、今でも毎日続けています。ただ私は、料理があまり得意ではないため、食事中に家族からダメ出しされることもよくあります。それでも続けてるせいか、最近では「お母さんに似てきたよ」「料理してる時は、お母さんにそっくりだよ」と言われることもあります。

料理をしている時は、ちょっと不思議なんですけど、天国にいる母が私の近くまで来てくれて、私のことを応援してくれるような… 元気付けてくれるような… そんな気がするんです。例えば、学校で嫌な出来事(友達とケンカしたり、テストで悪い点数を取ったり)があった日でも、家へ帰って台所に立ち、包丁を持って料理を始めると、心が落ち着いてくるんです。どこか安心できるんです。そのせいか、外で物音がすると「お母さんが帰って来たかな?」と思ってしまう時が、今でもよくあります。

手紙を読んだあの時は、夢を聞かれても答えられませんでしたが、今なら答えられます。“大好きだった母のようになりたい” それが私の夢です。