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二年ぶりのクリスマスに、二つのXmasプレゼント

統一教会平和奉仕ボランティア隊・第52陣で12月24日、作業後に他のボランティアチームから夕食に誘っていただき、一緒に食事する場を持ちました。

「今年もあっという間でしたね〜。」

「町の雰囲気は、去年(2011年)と比べるとだいぶ変わりましたね〜。」

夕食を囲みながら、いろいろな話題が飛び交いました。

「そういえば、去年の今頃は“クリスマス”って言っても、何もしなかったよね?久しぶりな気がするもん。」

「去年は地域のクリスマス会を手伝ってたよ。だから、盛り上げる側だったけど、一応クリスマスは祝ったよ。でもあの頃は、うちらがまだピリピリしてたから、祝う気分にならなかったんだろうな。」

「去年はまさか、今年のクリスマスもここで迎えるなんて、想像もしていなかったよ。」

「この調子だと、来年のクリスマスも、ここで迎えることになるかもな...」

メンバーが、向こうのチームのリーダーに質問していました。

「今年を振り返って、一番嬉しかったことは何ですか?」

「え?いちばん?…そうだね〜、今年もいろいろあったからな。でも、一番はやっぱり、元気になった地元の人がたくさんいたことかな。地元のお母さんや子供たちの笑顔からは、すんごい力をもらいましたよ。」

食後には、クリスマスケーキを準備してくださいました。

「そう言えば、統一教会さんはクリスマス得意ですよね?」

「えっ?とくい??そっ、そうですね〜。まあ、苦手ではないですが・・・」

「せっかくのクリスマスなので、ケーキもあるし、お祈りしてもらいましょうよ!」

ご年配のキリスト教徒の人もいたので、せっかくお祈りするならその人の方がいいのではと思って最初は断っていたのですが、押し切られたので、代表して私がお祈りをしました。

クリスマスをお祝いする気持ちと食事の場に感謝する気持ちを祈りました。

祈り終わると、リーダーの方から質問されました。

「お祈りの終わり方って“アーメン”じゃないんですね。どういう意味なんですか?」

そこで、意味を説明しました。

「へ〜、なるほど。そういう意味なんですね。いいじゃないですか!」

(目を閉じて合掌して)「...アージュ!」

「これでいいんですか!?」

丁寧に言い直してくれました。

乾杯してケーキをいただきました。

「また来年も、よろしくお願いします。」

「早く復興させたいですね!」

...この後も、いろんな話題になりました。

私が意外だったのは、ケーキを “食べた” ことより、食べた時の “喜びを共有した” ことの方が印象的だったことです。まるで、家族と一緒にクリスマスを過ごしているかのような感覚でした。

今回、私にとってのクリスマスプレゼントは二つ...

 『おいしいケーキ』 と 『家族の絆』

ということは、当然、サンタさんも二人...

『向こうのチームのリーダー』 と 『神様』

現地の方も言われてました。

「クリスマスは二年ぶりのような気がするな...」

だから、二人目のサンタさんが登場して、二個目のプレゼントを届けてくれたのかもしれません。この方は、サプライズがとってもお上手でした...

本当のクリスマスプレゼントは?

統一教会平和奉仕ボランティア隊・第52陣でクリスマス会のお手伝いをしました。

地元のPTAが主催して、複数のボランティアチームが支援に来ました。午前中は準備をして、午後からスタートするということで、昼過ぎに子供たちが集まって来ました。だいたい50人〜60人位、中にはご父兄のかたも一緒に来られました。

スタッフ「それじゃあ、今からクリスマス会を始めま〜す!」

子供たち「わ〜い!わ〜い!」

スタッフ「まず最初に、みんなに紹介したい人がいま〜す!さて、誰でしょうか?」

子供たち「アンパンマ〜ン!」 「サンタさ〜ん!」 「鈴木さ〜ん!」(←スタッフのこと)

スタッフ「クリスマスに来てくれる人だよ!じゃあ、みんなで読んでみよっかぁ。 せ〜の!」

子供たち「サンタさ〜ん!」

サンタ「こんにちは〜!(^0^)」

ごく少数の子供たち

「わ〜、サンタさんだ〜!」 「すご〜い!」

大多数の子供たち

「中の人だ〜れ?」「サンタって男?」「ひげがニセモノっぽ〜い!」「さっき着替えてた〜!」「プレゼントの袋が小さ〜い!」

裏方のスタッフ「いや〜。 サンタさんって、結構大変ですね〜(笑)」

続いて...

○クリスマスプレゼントを配ったり!

○サンタさんやトナカイと記念写真を撮ったり!

○人形劇が披露されたり!

○ドッジボールしたり!

...など、いろいろとやりました。

中には、被災したときの怖い思いが残っているためか、沈んだ表情の子供もいましたが、クリスマス会が始まると、終始元気で楽しい雰囲気が子供たちの間にあったので、スタッフさんたちも少しホッとした様子でした。

最後は、手作りロウソクを作りました!

1.サイコロ状の蝋が8色あり、好きな色を好きな量だけ取って、ガラスの型に入れます

2.その型にロウソクの芯を入れて、透明の蝋を溶かして流し込みます

3.冷まして蝋が固まれば、手作りロウソクの出来上がり

4.メッセージカードを添えて、ラッピングしたら完成です! 

仕上がりは、ちょっとしたプレゼントみたいになりました。

スタッフ「これを、お父さんお母さんにプレゼントしてくれる子供たちは何人くらいいるかな〜?」

楽しそうにつくる子供たちを見ながら、スタッフの方がボソッと話されていました。狙いはズバリ、子供から親への “逆クリスマスプレゼント!” そんな期待を胸に秘めながら、クリスマス会は終わっていきました...

スタッフ「終わりましたね。いや〜~~、まるで嵐が去ったかのような…」

片付けをしながら、そんな話になりました。

スタッフ「私たちにできるのは、これ(手作りロウソク)を作ってあげるところまでですね〜。これを通して、家族仲がもっと深まってもらえたらいいですね。」

子供たちが作った “手作りロウソク”

スタッフにとってはそれが、子供たちとその家族に届けたい “家族愛” という名のクリスマスプレゼントのようでした。

ボランティアが人生の新たな扉を開いた【後編】

あるNPOのリーダーが、被災地ボランティアの経験を通じて、生き方が大きく変わったという話です。

この方は2011年4月から2012年3月までの1年間、被災地ボランティアに取り組みました。その後、地元の大阪に帰ったのですが、被災地を支援し続けたい思いが強く、大阪から被災地を支援する決心をされました。

 

≪前編の続き≫

「最初はもちろん、考え込むことも多かったですよ。仕事をやらずに被災地支援に集中しようと思ったわけですからね。以前の仕事をしてた時よりも貧乏になるのは目に見えてました。明らかに金儲けはできない。最悪、自分が生活する最低限のお金も入ってこない可能性がある。」

被災地を支援したい思いと、最低限の生活資金は稼いでおきたい思い。この二つを同時に実現する方法、それがNPOを立ち上げることでした。その手続きを進める一方、被災地をいかに支援するかを考えていったそうです。

「今までと同じ支援を続けるだけではダメだ…それなら、東北に住んでいる人の方が貢献している。でも、今自分は東北ではなく大阪にいる。…それなら、逆に考えてみよう。大阪だからできること。大阪でなければできないこと。きっとあるはずだ…」

目先のことだけ考えるならば、東北の支援を続ければいい。しかし、メディアでも報道されているように、近い将来またどこかで大きな災害が起こるだろう。東北では“教訓”を今後に生かそうと、次の大災害の備えをする取り組みもある。しかし、その意識や取組みは、東北から離れれば離れるほど弱くなっている。

「それだ!と思いました。被災地の支援と同時並行で、“関西における災害のための備え”をしようと思ったんですよ。それこそ、東北から離れた場所であればある程、やる価値があると思いましたからね。」

“被災地を支援したい”という『思い』が、“東北の支援を継続、NPOを作る、次の災害の備え”という『イメージ』になり、具体的な『形』になり始めたのです。

東北の支援は…

「定期的に被災地に行ってますよ。その時に、関西からの支援物資を届けたり、現地のボランティアチームの活動を手伝ったりしてます。有り難いことに、定期的に被災地に行くことが、自分のモチベーションを上げてくれたんですよ。」

NPOを作るのは…

「今もやってますが、詳細な書類申請が必要なので時間と手間はかかりますね。でも、やるべきことは明確なので、2ヵ月後には認定されそうです。そうしたら、改めてスタートしようと思ってますよ。」

『次の災害のための備え』とは…

「災害時の備えと言った時、誰しも思い浮かぶのは防災グッズ。しかし、一般家庭や会社、公共施設に防災グッズの備えはあるのか?というと疑問を持つ人が多かったんです。そこでまず、備えがあるのか調べて、無ければ何が必要か考えていきました。“備蓄量が多い程、廃棄になった時の損害が大きく、買い直すコストもかかる”、”地域の小・中・高校の全てを個人で支援するのは限界がある”…考えた末、防災グッズの備蓄に関する案内や会議、呼びかけなどの啓蒙活動から始めることにしました。」

これは一つの例で、それ以外にも様々な取り組みを展開しているそうです。今後の取り組みの話から将来の話になり、夢の話になりました。

まず、小さな夢は…

「NPOを5年間、まずは続けることですね。」

大きな夢は…

「カンボジアや貧しい国に小学校を作りたいんですよ。または、そういうことをやる人の手伝いがしたいですね。世界には、勉強したくてもできない子供がたくさんいるじゃないですか。そんな子供たちに、教育を受けさせてあげたいんですよ。」

しかし、この夢は“手段”であって“ゴール”ではありません。

夢を形にしたその先に、成し遂げたい『志』がありました…

「いろいろな地域に学校を建て、世界中の子供たちが学校に通えるようになる。

 その後、ようやく達成されるゴール。

 それは… “世界の偏差値を『1』上げる”

 つまり、ほんのちょっとだけ “世界を変える!”

 それは、おそらく目立たない “小さな変化”

 でも、間違いないのは… “不幸な人は今より減って、幸せな人は今より増える”

 それが、夢の中に潜む志ってやつですかね。

 考えるだけでワクワクしてくるんですよ。

 これが実現したら、すごいと思いませんか?」

この後も、いろいろな話になりました…

【以上】

この話を聞いた後は、感動とワクワク感と勇気を一気にもらったような感覚になりました。まるで、壮大な映画を見た後のような心境でした。

ボランティアが人生の新たな扉を開いた 【前編】

 あるNPOのリーダーが、被災地ボランティアの経験を通じて、生き方が大きく変わったという話です。

この方は2011年4月、震災の翌月に地元の大阪から個人で被災地に駆けつけました。

「最初はまさか、(ボランティア活動を)1年間もやるとは思ってなかったですよ。被災地入りした時は2〜3日活動したら帰るつもりでしたから。それが、気付いたら1週間になり、あれっと思ったら1ヶ月になり、早いな〜と思ったら半年経ってたんですよ。」

活動を始めて間もなくボランティアチームのリーダーを担われ、多くの現場で活躍されました。その中で、自身の心境も変化していったそうです。

「不思議なことに、気持ちって変わるものなんですね。最初は“少しやったら帰ろう”と思ってたのに、数カ月経ったら“帰らずに続けよう”と思ってましたからね。やめるタイミングは、自分で決めるというより現地の方に決めてもらえばいいかな、という感覚になりましたよ。」

しかし、長期に渡り過酷な生活を繰り返す中で体調を崩してしまい、ドクターストップがかかりました。活動を始めてちょうど1年が経過した2012年3月、地元に帰らざるを得ない状況になったのです。最後の夜、チームのメンバーが新たな出発を祝ってくれました。

「帰るとなった時は、本当に悔しかったですよ。まだここ(被災した地域)には、やるべきことが沢山あるし、共に頑張ってる仲間もいる、私自身も続けたい。でも、帰らなければならないっていうのが、言葉にできないくらい悔しかったですよ。」

こうして、1年間にわたる被災地ボランティア活動を終えて、東北の被災地から地元の大阪に帰りました。

「帰った直後は後悔の思いも湧いてきたし、悩んだり、悔しくもなりましたよ。その思いの矛先は“ここ(関西)から被災地を支援したい”という方向に向きましたね。しかも、仕事をやる片手間にするのではなくて、被災地支援だけを本気で取り組みたかったんですよ。」

しかし、いざ行動に移そうとすると、多くの壁が立ちはだかりました。仕事をしないということは、当然収入が無いので、今は大丈夫でも、すぐに資金が尽きて生活できなくなるのは目に見えていました。

「かといって、仕事をしながらでは、被災地に対する意識や支援を続けるのは簡単じゃない、周りの人たちを見ていてそうだった。だから必然的に “仕事を取るか?” または “被災地支援を取るか?” のどちらかだろうなと思ったんですよ。」

様々な思いが交差し、多くのことを考え、悩みました。ある日は椅子に座って、一日中考え事をしていました。まさに“考える人”になったのです。

「もしも、被災地支援を取ったらどうなる?」

「仕事してた時よりも貧乏になるのは目に見えてる。」

「明らかに金儲けはできない。」

「最悪、自分が生活する最低限のお金も入ってこない可能性がある。」

「当然、家族や周囲の人も心配する。」

「やっぱり、仕事を取ろうか…」

そんなことを考えていた時、本質的な問いかけが、ふと頭の中に浮かびました。

「待てよ、そもそも自分は一体、何の為に生活しているんだ?」

「金儲けをするためか?安定した生活のためか?」

「仮に金儲けできたとして、その金で自分は何をしたいんだ?」

「自分にとっての本当の幸せって何だ?」

ある日、被災地から大阪へ帰った日のことを思い出しました。

「そう言えば、あの時も辛かったな〜。何が辛いかって、単純に“やめたこと”が辛かったわけじゃない。やめたくてやめるのなら納得ができる。でも、自分はやめたくなかった。だから一番は、自分の“意思に反した決断”をすることが辛かったんだな。」

そこで、ひらめきました。

「もし今、仕事を取ったとしたら、“自分の意志に反した決断”をすることになるので、あの時と同じ辛さをまた経験するはめになるじゃないか…」

「………」

「…それなら、たとえリスクを抱えながらでも、自分が行きたい道を選ぼう!」

それまで重かった頭の中がスッキリして、一気に軽くなったのが分かりました…

≪後編に続く≫

被災地におけるガレキ撤去後の取り組み

ボランティア団体のリーダーから、被災地におけるガレキ撤去後の取り組みについて話を聞きました。

【以下、リーダーの話】

震災直後の時期は、どこへ行ってもガレキ撤去一色だった。しかし、時間の経過に従って、がれきは徐々に片付けられていった。すると、並行して仮設住宅の建設も始まった。仮設が完成するに従い、被災した方たちが避難所から仮設へ次々に引っ越した。すると、多くのボランティア団体も仮設の支援を始めた。

そんな中、我々もがれき撤去だけではなく、仮設支援も始めようと調査した。すると、“仮設住宅の支援”をするボランティア団体は多かったが、“在宅被災者の支援”をするボランティア団体は少なかった。

「当初は仮設支援を始めたいと思ったんだけど、仮に仮設支援をする団体が30あるとすれば、在宅支援をする団体は5つ位しかなくて、更に、NPOや大きな団体のほとんどは仮設の支援にまわっていたんですね。
その現状を知った自分たちは、手薄になりやすい在宅被災者の支援から始めることにしたんです。」

在宅被災者が多い地域を見渡してみると、気軽に人が集まれる集会所のような役割を果たす場所が無かった。そこで、今は使われてない空地を確保して、購入した中古のトレーラーハウスをその場所に設置した。大工のボランティアさんと一緒に内装を全てリフォームした。

するとその場所は、地域の人たちが気軽に集まってお茶したり、おしゃべりしたり、ミーティングしたり、子供が集まってサッカーしたり、鬼ごっこしたりする場所、コミュニティスペースになった。
今後は更に、この場所で食べ物を作って売ることができる環境を整える予定。

この場所を通じて、地域を活気付けて絆を再構築している。
更に今後は、雇用の促進を通して、地域の人にやりがいや生きがいを提供したい。

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「ただ最近は、震災当時と比べて被災地の状況が大きく変化しているので、ボランティアをする難しさっていうのを、すごく感じるんですよ。」

震災直後は街全体がピリピリした雰囲気だった。誰もが生きることに必死だった。なので、助けに来てくれる人であれば誰でも歓迎されたし、どんなことをしても許された。
しかし、震災から1年半が経過した現在、街全体のピリピリした雰囲気もある程度落ち着いて、震災前の日常に戻りつつある人も多い。なのでボランティアは、現地の状況を正確に理解して活動に取り組まなければ、地域の支援になっていない活動をしたり、逆に地域に迷惑をかけてしまうことも多い。

よって、どんなに小さな活動だったとしても、慎重に取り組まなければいけない。
今からやろうとしてる活動は、地域の人たちに確認をとったのか?本当に必要とされてるか?反対する人はいないか?迷惑をかけないか?よく吟味しなければならない。

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また、ある地域では、地域レベルで季節に合ったイベントを企画している。例えば、春はお花見やお花畑づくり、夏は七夕や花火大会、秋は運動会、冬はクリスマス会や餅つき。そこに、地域の子供たちを呼ぶ。他の地域の子供たちにも声をかける。子供たちに続いて、お父さんやお母さん、時にはおばあちゃんも一緒に参加する。その日は、ボランティアさんたちもイベントに一緒に参加して盛り上げる。

「生活再建に必死で、子供の相手をなかなできない親も多いと思います。でも、外はがれきだらけだから、子供が遊びに行ける場所はない。寂しかったり、辛い思いをしている子供が多いと思います。
だから自分は、子供の支援はどんなにたくさんやっても、やり過ぎることは無いと思っているんですよ。実際、子供が元気だと、その地域に希望を感じるんですよね。また、その地域全体が元気を取り戻してくるんですよ。」

子供の支援をすることは、その地域の今だけではなく、未来にも投資すること。
目がいきやすい“被災した過去”や“苦労の多い今”を見つめるだけではなく、“復興した未来”も見つめながら、被災地支援を続けたい。

(…このリーダーは、今日も被災地で汗を流しがら、被災地の復興のために活動しています。)

作業中に骨を発見したら…

 海沿いの地域でガレキ撤去をしました。石巻市でも田舎の方はガレキが残っている地域があります。

 作業していると、メンバーの一人が
「ほっ、骨を見つけたんですけど…」
 と言ってきました。

 行ってみるとそこには長さ約20cm〜30cmの骨が3本ありました。最初は動物の骨かと思いました。しかし、形からして人間の骨でもおかしくないと思い、素人では判断がつかなかったので、警察官を呼ぶことにしました。

 現場は街中から離れた場所だったため、到着まで1時間以上かかりました。

 この1時間が、3時間位に感じました。

 駆けつけた警察官に骨を見せました。
「あ、確かに骨ですね。これは、、、どこで見つけましたか?」
 発見した現場を見てもらったうえで、何の骨か聞きました。
「外見を見ただけだと、断定はできませんね。可能性としては、人間のものより動物のものである可能性の方が高いです。ただ、人間の物である可能性もあるので、調べに回しますね。」
 素人にも、動物のものか見分けれるか聞きました。
「それは、ちょっと難しいですね。」
 この場はそれで終わりました。

 結果的には後日、動物の骨だと分かりました。話によると、この時に我々がガレキ撤去をしていた地域は動物が多く住んでいるため、動物の骨が見つかることは頻繁にあるようでした。

 後から振り返ってみれば、動物の骨を取りに来る5分のためだけに、往復3時間をかけて警察官に来てもらったことになります。なので、少し申し訳なさを感じたのですが、それに対して
「何か気になるものがあったら、些細なことでもいいので、ドンドン呼んで下さいね。」
 と言われました。何気なく言われた言葉だったのですが、何故か私はその言葉に重みを感じて、その言葉がずっと心に残っていました。
 話には出ませんでしたが、
「もしかしたら、この何気ない骨から、行方不明者の発見につながるかもしれませんから。」
 そう言われているように感じました。 

 活動が終わって東京に戻って一息ついている時に、何気なく見ていたニュース記事の一部が目に留まりました。
「震災から1年半が経ち…行方不明者が約2800人…今でも親族が捜索中…」
 あの時出会った警察官は、使命感だけで捜索していたのではなく、行方不明者の親族のような気持ちも持って捜索していたのだと分かりました。

風化は私の心から

「被災した方たちは、心がとても強かったので、逆にこちらが力をもらいました。」
「被災地では笑顔で元気な方が多かったので、安心しました。」
「被災して、もっと深刻に悩まれているのかと思ったのですが、とても前向きだったので安心しました。」

 ボランティアさんからは、こんな声をよく聞きます。その中で私は、最近一つ心配になってることがあります。

 というのも、ボランティアさんたちといろいろ話していると、上で述べた感想に付随した形で、言葉には出ないけど、こういう心境になっている方が多いからです。
「被災した方たちは、心がとても強かったので、逆にこちらが力をもらった。(だから、心の傷も癒えたんだ!良かった!)

 つまり、
 心が強い=心の傷が癒えた
 と捉えているのです。

ではここで、
Question:“心が強い=心の傷が癒えた”でしょうか?

 実際、被災地でずっと活動を続けるボランティアさんたちと話すと、心が強い方、笑顔で元気な方は大勢いるのですが、その中には家族を失い、心に深い傷を負い、今でもその時に負った傷が心深くに刻まれてる方が多いと聞きます。

そういう方たちから聞くのは、
Answer:心が強い=心の傷に負けずに努力してる≠心の傷が癒えた
です。

 ここで、“心が強い=心の傷が癒えた”という捉え方に対して私が心配をする理由が二つあります。

1:心の傷が癒えた→心のケアも必要ない→ボランティアも必要ない→ボランティア精神の低下→忘れ去られてしまう→私の心の中で震災の風化が進む
2:自分の心が1の状態になってしまっていても、自分自ではそのことに気付いてない、というケースが多い

 上記の1,2ようになると、しばらく時間が経ってからハッとします。風化していたのは“周囲の環境”ではなく、“私の心”だったことに気付くのです。

 震災の風化を促進してる要因の一つは、現地の頑張ってる方たちと会った時に持つ“誤解”“安易な安心感”かもしれません。

ボランティアは、がれき撤去が終わったら何をする?

最近、頻繁に聞くキーワードの一つにこんな言葉があります。

「子供の支援」

震災後から、子供に関する話を聞くことは多いです。

「うちの子供は、震災から1年間は怖くて外へ出て遊ぶことができなかった。1年が経って、少しづつ外に出れるようになってきたよ。」
「ご近所さんからは、いじめが多くて大変なんだって話をよく聞くの。」
「震災後は、津波の汚れがちょっと残ってるそこ(集会所)に、子供が怖がって行けなくなっちゃった。」

「ここの学校は、震災前はしっかりした進学校だったんだけど、震災後は徐々に生徒たちが荒れてきて、今では警察官が校舎内を定期的に巡回しないと学校が成り立たない位になった。」
これらの話はその一例です。

最近はこんな話も増えてきました。
「子供たちは素直で純粋だから、震災から受けた心の傷は、見た目以上に深い。」
「一般的にも“夢のない子供”や“元気のない子供”が多いとは言われてるが、それとはちょっとレベルが違う。」
「この地域の子供は、夢が“ない”のではなくて、夢を“持ちたいのに持てない”から、見てて危機感を感じる。」
「大人からしても、この地域に住む子供たちの将来が見えない。子供はそんなこと気にしないけど、子供を持つ親は不安。」

現地では、子供が受けた心の傷に対する問題意識を持ってる方がとても多いです。
なぜか?

「傷というものは普通、時間の経過と共に治るが、子供が受けた心の傷は時間の経過と共に治らない可能性がある。」
「この傷は、治らないどころか悪化する可能性すらある。実際、悪化してるケースがあるから、今の被災地の環境下だと、更なる悪化の可能性も高い。」
「受けた傷は“数年で治る一時的な傷”にとどまらず、“人生70年の傷”になりかねないし、“命を落とす傷”にもなりかねない。」
「夢を捨てた子供もいる。そんな子は今、とても悩んでる。津波で家が壊れて悩んでるんじゃなくて、夢が無くなったことで悩んでる。」

これらの問題はがれきと違って、パッと見てもすぐ分からないことが多いので、他の地域から来ると気付きにくいです。

最近は、子供の支援に取り組んでるボランティアチームが多いです。ボランティアにおいては、地域によってニーズが様々なので活動も様々ですが、“子供の支援”はどの地域においても必要だと感じました。

愛情にあふれたお母さん

あるお母さんから、夕食のお誘いを受けました。

最初は断りました。その時は私たちのチームも人数が多かったからです。しかし、「もう、人数分作って準備してるから、絶対に来てね!」というお話をいただいたので、お伺いすることにしました。

お母さんのお宅に伺ってみると驚きました。私たちのチームだけではなく、他のボランティアさんたちも含めて、30名〜40名位招いての夕食でした。しかも、お母さんが一人で40人分の手料理を作っていたのです。

更に、私たちのチームはそのお母さんから仕事の依頼を受けたことはありません。つまり、食事に誘われた時が、お母さんと初対面だったのです。顔も名前も知らない自分たちを、ただ “ボランティア” ということだけで、ここまで快く食事に招いて下さったこと、その寛大さに驚きました。

「さあ、食べて食べて!ボランティアさんたちにはすごく助けられたから、とても感謝してるのよ。だから、遠慮せずにたくさん食べてね!」

食事中、震災があった時の話をお母さんから伺いました。

このお宅は津波が来た時に、二階建ての家の一階部分が津波で埋まってしまいました。なので当然、津波後は家の周囲もがれきだらけでした。お母さんのご家族は避難していて大丈夫だったそうです。

「…それでね、津波が引いた後に家に戻ったんだけど、そこにはもう、信じられない光景が広がっていたのよ。あの光景を目の当たりにした時、何だか不思議な気持ちになったの。あの時の気持ちを言葉にしようと思っても、上手く表現できないのよ。悲しみともちょっと違えば、喜びでもないし…」

お母さんが話される様子からも、震災後に感じた心境は、本当に言葉で表現できないものだったのだと、よく分かりました。

「…それでね、自分でも驚いたんだけど、津波が引いた後の光景を初めて見た時に、“悲しみ”じゃなくて“笑い”が出てきたのよ。というか、笑いしか出てこなかったの。笑いが出てきた時は最初、自分ってついにおかしくなっちゃったのかな?と思ったくらい。普通だったら悲しくなって泣いたりすると思うんだけど、不思議と私は涙は出なかったの。
後ろ向きな気持ちは全く出て来なかったのよ。“この家をどうやって片付けようか?”とか、“この地域をどうやって復興させようか?”っていう前向きな発想しか出てこなかったのよ…」

そして、最低限の自宅の片付けをした後、お母さんは、ボランティアを支える為の炊き出しを始めました。それも、半年以上にわたって毎日、時には40名以上のボランティアさんたちに、お腹一杯になるまで食事を振舞ったのです。

震災から1年半が経過した今でも、遠方から来るボランティアさんを自宅に泊めてあげたり、ボランティアさんたちを招待して食事をご馳走したり、地域の復興行事に進んで手伝いに行ったり…話を聞けば聞くほど、このお母さんはボランティアさんたちの何倍も、人のため地域のために貢献しているように感じました。

「…不思議なことに、投げ出したくなったことは一度もないのよ。でもそれは、ボランティアさんたちにいっぱい助けられてるからなのよ。だから、本当にありがとね…」

お母さんは、どういう側面でボランティアさんに助けられてるか聞くと、即答されていました。

「いくつもあるけど、ひとつは笑顔よ!
ボランティアさんたちの笑顔に、すごく力をもらうのよ。これから頑張ろうとするうえで、十分な力をもらうの。だから、私もボランティアさんの為にもっと頑張りたいし、もっといろんな人を支えたいと思うのよ!」

このお母さんは、ボランティアに助けられる以上に、ボランティアを助けていると強く感じました。しかし、お母さんは助けられてるという感覚しか持たれていませんでした。

私自身も、お母さんと話しながらとても感動しました。同時に、とても勇気付けられました。お母さんを通して、強さや優しさ、温かさ、愛情、いろいろなものを感じて、私も心が熱くなりました。

このお母さんはまるで、ボランティアさんたち皆にとっての、本当のお母さんのようでした。

被災地で生まれた夢

 ある現場で草刈りをしました。ちょっと物足りなさそうに作業をするメンバーを見て、昼休憩の時に現地の方がこの現場に関する話をしてくれました。

「ここは、津波で1階部分が水没して3日間水が引かなかった。津波が引いた後は町中がれきだらけになった地域だよ…」

 この場所は、津波後はがれきだらけだったので、ボランティアさんたちできれいにしました。その後、表面の汚い土を削って捨てて、土地を平らにして、きれいな土を入れました。

「がれきを撤去した後、この場所は今後どういう場所にしようかって話した時に、子供たちの遊び場にしようってなったんだよね。」

 ボランティアさんたちが沢山来たことで、この地域はがれきは徐々に片付いてきました。しかし今でも、細かいがれきの破片はいっぱい残っていたので、小さな子供たちが安心して遊べる場所はほとんどありませんでした。

「そして、フットサルチームの方を招いて、子供たちのサッカー教室を開いたのさ。すると、子供たちが30人集まったよ。小さな子供たちだったから、だいたい皆、お母さんと一緒に来てたね。もちろん、子供たちは普通に楽しそうにサッカーをやってたんだけど、驚いたことに、それを見ていた親たちがほとんど泣いてたんだよね…」

 震災後、子供たちは外で遊びたくても、危なくて親が止めていた。でも、親心としては子供たちを思いっきり外で遊ばせたかった。その光景をやっと見ることができた親が、感極まって泣いてしまったようです。

「そのことがあってから、子供の遊び場はこの地域にとって必要だと確信が持てた。だから、きちんとした芝のグランドにして、子供たちに思う存分サッカーを楽しんでもらえる場所にしよう!ということで芝の種を蒔いた。そして今、少しづつ芝が根付いてきたところなんだよ。」

 とても楽しそうに語られていました。話によると、芝というのは種から蒔いて育てるのが一番しっかり根を張るようです。できた芝を持って来て敷き詰めるだけだと、見た目はきれいだけど、土地への根付きがあまり良くない、だから種から蒔いたようです。予定では、来年になればきれいな芝のグランドが完成するようです。

「今では、ちょっとした夢があってね。それが、このグランドからサッカーの日本代表選手が生まれることさ。もちろん、ここ数日や数年で実現することじゃない。実現するとしても10年後や20年後、30年後かもしれない。だから、夢が実現する頃には自分はもう、この世にいないかもしれない。だからこそ、こういう夢を次の世代の若い人たちへ託したい…それも一つの夢かな。」

 震災後は、ただただ必死に動いていただけだったけど、その中から具体的な夢が出来上がっていったようです。
 そして最近は、夢を考えることが楽しくて楽しくて仕方ないんだと話されていました。

「夢は、自分自身が生きる力の源になってる。夢は、苦しい環境を乗り越える力をくれるよ。逆に夢がなかったら、自分も鬱や精神病にかかっていただろうな〜って思うよ。やっぱり人間は、考えるだけでわくわくする夢を持ってる方が、いい生き方ができるんだな〜って震災後は特に感じるね。」

 最初は、傷付いた子供たちに元気や夢を与えたい一心で活動を始めた。でも今では逆に、その夢が自分の支えてくれている、その夢が自分に生きる力をくれる。この感覚が、自分でも不思議に感じたようです。

 昼休憩が終わって午後の作業を始めたら、みんな草刈りに熱中していました。