東日本大震災当時、宮城県南三陸町の入谷地区(海から約5km内陸の山間部の地域)で消防団員だった人から話を聞きました。
ーーーーーーー〔前半〕ーーーーーーー
あの日、ここ(入谷地区)は海から離れてたから津波は来なかったですが、地震の揺れはすごかったです。揺れが収まると、近隣住民がすぐ集会所に集まって情報収集しました。すると“町の中心部は10m以上の津波に襲われた” とか “警察や消防、役場も含めて機能していない” という情報が入る中、ラジオで流れた「志津川病院(海近くの病院)で200人以上が孤立…」というフレーズが気になりました。この状況下で助けに行けるのは、うちら(津波被害が出てない地域の消防団)しかいないと思ったからです。
震災翌日の朝、私も含めて消防団員が数十名集い、市街地で孤立した人たちの救助に向かいました。ある程度歩くと津波が到達したエリアに入り、路面には土砂やがれきが散在しました。津波は、海から約3km程内陸まで届いていました。
震度4~5の余震も頻繁に起きました。「今の余震で、また津波が来るぞ!」「高い所へ上がれ!」といった仲間の声にも動揺しました。一晩経って水自体はある程度引いてましたが、海へ近付くにつれて、大木や車、家財道具、家の屋根などのあらゆる物が道路にあふれ、津波の爪痕が色濃くなってきました。市街地へ向かう道路は国道が2本ありましたが、片方は途中の橋が崩落して使えなかったので、もう片方の国道398号線、これが生命線だと思いました。
市街地に到着すると、消防団員を3つ(中学校行き、高校行き、病院行き)に分けて、私を含めた6名は病院へ救助に向かいました。
しばらく進むと病院が見えてきました。しかし、この辺りまで行くとがれきの量も多く、人の背丈よりも高く積まれていたため、視界を邪魔して海の様子が一切見えませんでした。私は、一瞬迷いました「これ以上先へ進んだら逃げ場が無くなる。余震と共に津波に襲われたら我々全員、命は無い…進むか?戻るか?」と。しかし、共にいた消防団員が『自分の親戚にあの病院の看護師がいて、地震以降は連絡は取れておらず、どうしても無事を確認したい…』と話していたのを思い出し、「ただでは帰れない。行くぞ!」と声をかけて、病院へ急ぎました。
道中、がれきの中から遺体を発見することもありました。一緒に連れて行きたかったですが、あの状況下ではどうすることもできず… 毛布をかけて、手を合わせることしかできなかった自分が悔しかったです。
平常時と比べると3~4倍の時間がかかりましたが、ようやく病院に到着しました。
ーーーーーーー〔後半へ続く〕ーーーーーーー