参加者の声 “愛の力は絶大!!”

2013年の3月、ある日の参加者の感想を紹介します。

この日の依頼は、畑作りがメインの作業でした。

――――【以下は、メンバーの感想】――――

作業中、他のボランティアチームも合流して一緒に作業をしました。

その時、合流したチームのリーダーの男性が、僕の赤いジャケットを見るやいなや、気付いたようにこちらに向かって、大股で近付いて来ました。若干強面の男性でした。近付いてくるやいなや、強い口調で声をかけられました。

男性「あんた、統一教会の人なの?」

「...あ...はい。」

その時の雰囲気から、もしかしたら怒られるのかな〜?と思いつつ答えました。

すると、ものすごい勢いで...

男性「いや〜、いつも助かってるよ〜。」

「え?...あれっ?」

 ・・・“感謝” されました。 その時感じたのは、圧倒的な違和感でした。

男性「あれっ?君は〜、今回初めて参加したの?以前来てくれた皆は元気にしてるかなぁ?」

「え?...あっ、は、はい。」

最初は違和感だけでしたが、話を聞いていると、その男性と統一教会との間にある “絆” を感じました。

男性「あれっ?統一教会さんは、今回は何人で来たの?」

「え?…あっ…い、いちおう、4人です。…いつもより人数が少ないみたいで…ちょっと申し訳ないんですが…」

男性「何言ってるの〜。こっちからすると、1人でも嬉しいんだよ。統一教会さんは、みんな頑張り屋さんだから、来てくれるだけで助かるんだよ。それに今は、ほとんどのボランティアチームが撤退しちゃったじゃない。そんな中なのに、ずっと来続けてくれてるでしょ...」

僕は、ここにある “絆” が、以前に来た統一教会員の “愛” が現地に伝わって築かれたのだと、強く実感しました。そして、僕自身が周囲に “愛” を伝えていけば、周囲の人は “僕” を通して統一教会を見てくれるのだと気付きました。

 『愛の力は絶大』 だと感じました。

南三陸町におけるボランティア活動

 今年の3月上旬からは、南三陸町でもボランティア活動を行っています。

災害ボランティアセンター受付

  こちらでは、現在でも“南三陸町災害ボランティアセンター”があって、地域からのニーズを収集してボランティアを派遣しています。

 街を見てみると、コンビニは復旧していますが、仮設のコンビニが多いです。

(南三陸町の沿岸地域にあるコンビニ)

  また、町内に復興商店街が数カ所あります。

  

 (南三陸町にある復興商店街)

 しかし、スーパーやホームセンターは町内にありません。なので、スーパー等へ行きたい時は、近隣の登米市や石巻市にまで足を延ばして買い物に行く人が多いようです。今月17日になって、やっと震災後初めてとなる、生活用品全般を扱う大規模常設店(ドラッグストア)がオープンした状況です。

 

 南三陸町で活動する時は、活動後に視察をしています。

(視察の時に行く防災対策庁舎)

  統一教会平和奉仕ボランティア隊(UPeace)では、今後も、南三陸町におけるボランティア活動を継続していきたいと考えています。

銭湯で出会った神様

先日、UPeaceに参加したメンバーの体験談です。

現地の作業後に銭湯へ行った時の、ある“おばあさんとの出会い”について話してくれました。

「私が銭湯から出て休憩場所で休んでいた時、椅子に1人で座り、ぼーっとされているおばあさんがいました。とても悲しい目をされているように感じて、気になりました。私は話しかけて良いものか迷いましたが、20分以上もずっとボーっとされていたので、話しかけずにはいられなくなりました。...」

最初は、どういう言葉をかけたらいいのか悩みながらも、銭湯の話題から切り出して約10分程度でしたが、そのおばあさんと話をしたようです。

「震災当時のことや、震災後から1人でいることが怖くなったということ、震災からの2年間はとても長く辛かったことなどを話してくださいました。その中でも一番印象に残っている言葉は、

『町の様子は一見復興してるように見えるけど心は全く復興してない』

 ハッキリ“全く”と言われてました。 私はその時、この方を抱きしめたい、少しでも支えになる言葉をかけたい、助けになりたいと強く思いました。...」

そう思った時、おばあさんはもう、時計を見て立ち上がり、帰り始めました。何か言葉をかけようとしたけれど、歩きながら、せいぜい一言二言程度しか声をかけられませんでした。帰っていくおばあさんの後ろ姿は、話しかける前と同じ、悲しい様子のままだったようです。...

「二年経っても心は全く復興してない。

 それが、たった10分程度の会話で何とかしてあげられるわけではない...

 そんなことは分かってます。

 分かってるんだけど、それでも何かをしてあげたかった。

 たった一言でいいから、心を支える言葉をかけたかった。

 でも、どんな言葉がいいのか分からなかった。

 結局最後は、当たり障りのない言葉を選んでしまいました。

 でもその言葉に、精いっぱいの思いを込めたんです。...」

翌日、銭湯のおばあさんとの出会いを振り返っていると、気付いたことがあったようです。

「おばあさんとの出会いを振り返っている時に、ハッとさせられたことがあります。

 おばあさんに対して湧いてきた気持ちは、実は、私が思う以上に神様が思い、私が望む以上に神様が望んでいることだったと気付いたんです。

 私は、心が復興してない人が一人でもいたら、笑顔になるまで愛したい…

 がれきが少しでも残っていたら、ひとつ残らず拾いたい…

 子供が外で遊べないなら、遊べる場所をプレゼントしたい…

 何かあればすぐ飛んで行って、少しでも日本中の『家族』の支えになりたい…と、強く感じました。

 しかし、神様はもっと強く思われていたんです。

4日間のボランティア活動が終わりました。

東京に戻って反省会をした時です。

「神様は、おばあさんに対して愛したいと強く願われていました。でも、おばあさんに対してだけではなく、神様は私に対しても人生20年間、ずっと同じ思いで見つめていたのだと気付きました。

 でも神様には肉身がありません。

 これからは私が神様の手となり足となって言葉を発していきたいと思いました。」

トレーラーハウスにかけた夢

つい先日(4月6日)、石巻のある地域でコミュニティスペースの開所式が行われました。

【2012年8月上旬 設置された直後のトレーラーハウス】

  2012年7月、中古のトレーラーハウスがこの場所に設置されました。その後、ボランティア中心に、約8ヶ月かけてリフォームされ、コミュニティスペースが作られました。

その名は、街の駅『コスモスの家』

この日の開所式は、町内会長のあいさつでスタートしました…

子供たちがジャガイモ畑のための種イモを植えたり、

はねっこ踊りが披露されたり、

餅つきをやったり...など

直前までは大荒れの天気予報だったにもかかわらず、開所式当日は雨が一切降らず、天候も味方してくれました。

 「いや〜、直前まで天気は気になっていたんですが、当日は大成功でしたよ。」

 

主催したリーダーの方から話を伺いました。

「トレーラーハウスをここに設置したのは去年の7月なので、今から8か月くらい前ですね。まるで、一から立て直した方が早いんじゃないかって思うくらい、大規模リフォームをしましたよ。」

 【2012年12月上旬 リフォーム途中のトレーラーハウス】

 「いろんな人からの支援を受けて、やっとここまで来たか〜って心境です。予想以上に、時間や人手、お金もかかりました。でも、その分、いろんな人たちの熱い想いがたくさん詰まった場所になってると思いますよ。」

 

 【2013年4月上旬 開所式前のトレーラーハウス】

 「今後この場所は、いろいろな団体(NPOや企業など)が在宅被災者への支援活動をしたいという時に活用していただく場所として、多くの方たちに利用してもらいたいんです。そして、この地域における“未来の新しい街づくり”をする場所にしたいんですよ!」

 

 【2013年4月上旬 トレーラーハウスの中】

 「例えて言うなら、子供を支援する活動をやったり、町内会運営の会議をやったり、夏の花火大会や年末の餅つきといった、季節のイベントを開催したり...などなど。

 “コスモスの家”って聞くと、なんだか老人ホームみたいな名前に聞こえちゃいますけどね!」

お伺いした話の中で、印象的なフレーズがありました。

「...“団体あっての活動” じゃなくて、“課題があってこその活動” ですからね。支援する人がいなくても、ここの住民だけで復興できるようになるのが目標なんです。自分みたいな支援者がいらないような地域。そんな地域を、夢見てるんです...」

3.11「祈りの風船」

3月10日から11日にかけて、東日本大震災の犠牲者をしのぶ追悼式と追悼イベントの手伝いをしました。

メインは、犠牲者に思いを寄せた風船を2日間で1万個飛ばすというものでした。

  

 主催したスタッフの方は、

「本当は、震災で犠牲になられた方の人数分...つまり2万個位の風船を飛ばしたかったんです。でも、実際はその半分の1万個しか準備できませんでしたが...。」

と少し残念そうに話していました。

“絆”、“ありがとう”、“祈り”...など

風船を膨らませてみると、これらの言葉が大きく書かれていました。更に、途中で割れて地面に落ちてもゴミにならず、土に帰る特殊な素材で作られた風船だったので、安心して飛ばすことができました。

 

  「復興祈願」

 「いつもあなたのことは忘れません」

 「みんなでがんばろう」

 「全国のみなさんありがとう」

 「これからも応援し続けます」

 「はやく復興しますように」

 「おとうさん、みまもって下さい」

犠牲になった方たちへの思い、これからの心境、被災地に対する願いなどのメッセージを短冊に書き、風船の紐の先に付けて飛ばしました。予め、市内の小学校などから集めたメッセージ入りの短冊は約3000枚ありました。

3/10は強風の為、午前中で作業が中止になりましたが、3/11は終日作業を行うことができました。

3/11は震災の起きた午後2時46分に黙祷がありました。

当日は、追悼式に参加し自分で短冊に思いを書き記して、風船に付け自分たちで飛ばす人も多かったです。また、会場に来たくても当日来場できない人のために、短冊に書き込みたいメッセージをファクスや電子メールで受け付けていました。

  

  イベントの途中で、人がたくさん来た時は、集まった人たちでタイミングを合わせて、数百個単位でまとめて風船を飛ばしました。風に乗って飛んでいくカラフルな風船は、見ていてとてもきれいでした。

しかし、風船を飛ばせば飛ばすほど、これだけ多くの人が犠牲になったのかと思うと、その悲しみの大きさも伝わってくるようで、祈りにも似た心境になりました。

小学生の子供たちが、心を込めて書いた短冊を風船に付けてる姿が印象的でした。癒されきれていない心と、前向きな元気な心がいっぺんに伝わってくるようでした。

時間の経過と共に感じる“復興”の難しさ

最近のボランティアは、地域によって活動が違います。

−がれきの撤去をやり続けてる地域

‐漁業支援をしている地域

−地域の子供たちのための遊び場を作っている地域

−在宅被災者の方たちのニーズを集めて支援している地域

−リフォームのサポートをしている地域

−地域のイベント行事をサポートしている地域

地域によってスピードは違えども、外的な復興(街の復興)は少しづつ進んでいる印象を受けます。

 

一方で、内的な復興(心の復興)はちょっと違う印象を受けます。いろんな方たちから話を聞く中で感じるのは、内的な復興は一人ひとり違うということです。被災した方たちは、それぞれが言葉では表現しきれないくらい様々な境遇、様々な心境を通過されていました。被災者という言葉でひとくくりにして考えることなど、到底できませんでした。

 

震災から二年が経過しようとしています。震災から時間が経てば経つほど復興は進んでいるはずです。しかし私は、時間が経てば経つほど、復興の難しさというものを痛感しています。がれきが片付いてきても、ホッと一息はつけないな...というのが最近の率直な心境です。

震災から生まれた趣味

今月活動していた時に、現地の方からお話を聞きました。

その人が住む地域は、東日本大震災の時に津波で被災したのですが、ボランティアの支援によって無事に町の機能が回復した地域でした。

「震災後の最初半年間は必死だったから、自分が生き残ることにしか意識が向かなかったですよ。

 年末(2011年の末)になってやっと、一息つける気持ちの余裕ができたんです。でも、いざ時間の余裕ができてみると、この時間をどう使おうかな〜って考えましたね。最初は、震災後にやれてなかった趣味を再開しようと思ったんだけど、被災地で頑張り続けるボランティアさんたちの姿を見ると申し訳なくなって、趣味に打ち込めなかったんですよ...」

この頃はまだ、ボランティアさんたちが毎日のように来ては、一生懸命に作業していたようです。

「私自身もボランティアさんに助けられた立場なので、今度は逆に、私がボランティアさんを助けたいと思ったんですよ。でも、私は仕事をしているので、昼間に一緒に活動することはできないので、どうしようか考えましたね...。(中略)

 それで最終的には、ボランティアさんを自宅に泊めてあげることにしたんですよ。幸い空いてる部屋はあったので。食事も一人分だけ作っていたものを二人分作ればいいだけだから、時間的にはたいした負担にならない。」

この方の自宅は、当時のボランティアさんたちの作業現場の近くであり、更にボランティアさんたちの宿所はあまり良くなかったので、“ちょうどいいだろう”ということで、すぐに行動に移したようです。

「今まで趣味に使っていた時間とお金を、使わずにとっておくことにしました。そして、ボランティアさんが訪ねて来る時や泊りに来る時に、とっておいた時間とお金を使うんですよ。そうすれば、今までの生活に比べても自分にかかる負担が増えずに済みます。趣味に使ってた時間とお金を他のことに使うようにしただけなんです。」

最初は1人、2人を泊めてあげるところから始まり、10人になり、50人になり、100人になり...

「1人残らず数えましたよ。次はいつ会えるか分からないから、できるだけ記念写真も撮るようにして...気付いたら、500人を超えていたんですよ。

 もちろん、いろんな人がいましたね。明るい人や暗い人、おしゃべり好きの人もいれば口数の少ない人もいる、優しそうな人もいれば怖そうな人もいる。でも、一人一人と会って、よ〜く話してみれば、誰一人として悪い人はいませんでしたよ...それが、私の結論です。」

お話を聞きながら驚いた旨を伝えると、別に特別なことはしていないんだと、繰り返し言われてました。

「こういう話をすると、“よくできますね〜”とか、“すごいですね〜”と言われるんですが、別にたいしたことはないんですよ。元々の趣味をやめて、こういうことを趣味にしただけなので。自分にかかる負担は増えてないんですよ。

 それに今では、この500人との思い出が、私にとっての宝物になったので、逆に彼らには感謝しているんです。」

 

この方は、「これからもボランティアさんたちを支える活動を続けたい」と言われてました。

私はこの方と接しながら、充実した日々を過ごしてる様子が伝わってきました。また、人助けをして相手が喜んでる姿を見るのが、御自身の喜びになっているのが伝わってきました。それはまるで、親心のようだと感じました。 “他人に対しても親心を持って接すること”の素晴らしさを、この方から学びました。

「まるで、あの日を見ているようだった」

2012年12月7日、大きな余震がありました。

 

その翌日以降、作業現場で現地の人と話す時に、12月7日の余震に関する話題が多く出ました。

 

現地の方から聞いた話を紹介します。

 

 

 

ある現場で、昼の休憩中に...

 

「そう言えば、この前の余震は、久しぶりに大きいのが来たって感じだったよね〜。揺れた後に(津波)警報が鳴ったら、みんな逃げるのが早かったよね〜。統一教会さんたちはあの時、どのにいたの?

 

...(中略)...

 

ただ、この辺りの地域の人たちは、警報が鳴って逃げ出すまでは良かったんだけど、車で出た人が多かったでしょ!だから案の定、すぐに渋滞になっちゃったよね。あれじゃあ、津波が来たら、また車ごと流されちゃうな〜って思ってゾッとしたのよ。“できれば車で逃げたい”っていう、その気持ちはわかるんだけど、やっぱりやめた方がいいね〜...」

 

 

 

 

 

ある現場で、作業前の打ち合わせ中に...

 

「この前は結構揺れたね。

 

...(中略)...

 

逃げた後にニュースを見てたら、3.11の時と同じパターンで大渋滞になってたでしょ。あれじゃあ、3.11の二の舞になるよ。震災後に“教訓!教訓!”って言葉が流行った時は、この地域も変わったんだなって思ったけど、この前の渋滞の映像を見たら、全然変わってなかったんだと見せつけられたような気分だよ。

 

...(中略)...

 

でも結局は、私も含めて、これからこの地域がもっと変わらなきゃならないってことだろうね。」

 

 

 

ある現場で、作業後の片付け中に...

 

「前回の余震の時は、(逃げる時に)みんな車でしたね。渋滞になっても誰も車から降りませんでしたからね。隣を走る自転車の方が早かったのを見た時は、正直ショックでしたよ。これだと、もしまた津波が来たら、十中八九、また多くの人が犠牲になってしまうと思いました...悔しいことですけど。」

 

 

 

東日本大震災の時、多くの人が車で逃げようとして渋滞になり、津波にのまれた。

 

その光景を知る人は、

 

「まるで、あの日を見ているようだったよ。」

 

 

 

その一言は、とても重く感じました。

不安と緊張感に覆われた町

【2012年12月7日】

その日は、東北ボランティア第51陣の活動初日でした。作業が終わり、いつものように車に乗って移動していました。その時、マナーモードにしていたはずの携帯電話から受信音が出ました。

 【緊急地震速報】

 「おっ…来るか!?」

最近は大きな余震が少なかったので、久しぶりにこの音を聞いた気がしました。

画面上には 【震度5以上がおよそ30秒後】

(それから約30秒後)

『...グラ...グラグラグラ...』

メンバーたち「うわ〜」「揺れてる揺れてる」「これ大丈夫?」

揺れが収まった後、ニュースでは

 【宮城県石巻市は震度5強 津波警報が発令されました】

その時私たちは車は、たまたま海の近くを走っていた時だったので、一瞬車内に不安が広がりました。

(写真は、大きな余震が来る10分前に撮ったもの)  

メンバーたち「結構揺れましたね。」「えっ?どうしよう」 「本当に30秒後でしたね。」「この揺れ大丈夫ですか?」

幸いにも、私たちは緊急地震速報をキャッチした瞬間に海から離れたので、余震後すぐに安全な場所へ避難できました。

しかし、避難している最中も、ひっきりなしに緊急地震速報を知らせる携帯電話の音が車内に鳴り響きました。更に車の窓を開けると、津波警報のサイレンが町中に鳴り響いていました。その光景はまさに、3.11を思い出させるような、町中が緊張感に包まれたような状況でした。

津波警報が発令されて10分後...

道路は一瞬にして長蛇の列、信号が青になっても進まない、あっという間に大渋滞。

「これなら、歩いた方が早く避難できそうだ...」

「もしかして、ここは道路じゃなくて駐車場か?」

そう思ってしまうくらい、不思議なくらいに車が動きませんでした。

 

余震から1時間後、半島の方で50cmの津波を観測

2時間後、近くの漁港で30cmの津波を観測

3時間後、津波警報は解除されず

その日は、独特な不安と緊張感が街を覆っていました。

 

【津波警報が解除されました】

その情報は、テレビのニュースで知りました。

皆は、まるで一つの戦いが終わったような心境になりました。

震災を通して得た、かけがえのない宝物

ある現場で作業が終わった後、ちょっとした会話の時間がありました。その場には、現地のお母さんたち、いくつかのボランティアチーム、私たちUPeaceも一緒にいました。

現地のあるお母さん

「そういえば、顔はよく見る人もいるけど、よく考えてみたら、私はみんなのことをほとんど知らないのよ。だから、少し教えてくれないかしら?」

そこで、それぞれのチームの代表者が紹介をして、お母さんが一言づつコメントしてくれました。私も、統一教会のボランティアチームということでUPeaceを紹介しました。

「あら、そうなの。統一教会っていうと、合同結婚式やってるところでしょ?私は、テレビでやってたことくらいしか知らないんだけど、しっかりした人たちが多いのね。」

ボランティアチームの紹介が終わると、いろいろな話題になりました。途中、震災直後のボランティアは大変だったという話題になりました。すると驚いたことに、それまでは笑顔で話をされてたお母さんたちが、一瞬にして真剣な表情になったのです。話を聞きながら、涙目になるお母さんもいました。

最後に、お母さんたちを代表して一人のお母さんが、ボランティアの人たちに挨拶をされました。

「みなさん、ありがとうございます。この二年間はあっという間でした。確かに失ったものは多かったけど、得たものもたくさんありました。『思いやり』、『絆』、かけがえのない宝物をみなさんからいただきました。おかげで、今では前向きな人たちも増えてきました。これからの人生で辛いことがあっても、前を向いて生きていきます。」

お母さんが語られる表情や雰囲気から、様々な思いが混ざり合った複雑な気持ちが伝わってきました。私は、この話を聞いて二つのことを思いました。

「震災直後に支援をもっとしたかった、という悔しさ」

 「心の苦痛を少しでも和らげて、生きる希望を届けたい」

でも、後から祈っていると、私以上に神様の方が、強くそれを願っているのだということに気付きました。