ワカメに愛着がわいた私

漁師さんから聞いたわかめに関する話と、お手伝いしたわかめに関する活動を紹介します。

わかめ Q&A】                     問題です!(^ ^)                     Q1.わかめの旬は何月?                 Q2.わかめの名前の由来は?              Q3.日本人が一年間に食べるわかめの量は、平均で何グラム?Q4.“わかめの日” っていつなの?             Q5.わかめを日本以上にたくさん食べている国は?      Q6.“三陸産わかめ” の特徴は?

さあ、きみは何問正解するかな?(^o^)           (答えは記事の最後です!)


【ボランティア活動】                   わかめを仕入れてから発送までのお手伝いをしました。

〇わかめを仕入れます。                 「ワカメと聞くと軽いイメージがありますが、乾燥ワカメではないので、結構重いです。」

〇中はこんな状態、みずみずしいわかめです。       「キラキラ光ってます!!」

〇わかめの “茎” と “葉” を分けます。            「意外と難しいですが、コツがつかめるとキレイにできます。」

   

〇わかめを入れる袋を調達します。            「いろんな大きさの袋があります。」

〇わかめの“葉”の部分を計量します。           「実は、規定量より5%位多く入れてます。サービスが良いですね!」

 

〇袋を完全に密閉します。                「完全密閉できなければ、新しい袋に入れて閉じ直します。」

〇完成!三陸わかめです。                「実は、このまま食べれます。ただ、塩漬けしてあるので、そのままは食べにくいです。」

〇冷やして発泡スチロールに詰めて発送します。       「発送作業をしていると、“美味しく食べていただきたい!” という想いが湧いてきます。」

〇味見すると...                   (メンバーの感想)                   「歯ごたえがあっておいしい!」             「いつも食べてるワカメに比べて、3倍くらい肉厚ですよ!」  「なんか、別の海藻を食べてるみたいです!」


 

 【わかめ Q&A】                     答えです!(^^)                      Q1.わかめの旬は何月?                ⇒A.3〜5月                      Q2.わかめの名前の由来は?                ⇒A.わか(若)+め(海藻) ⇒ “若い海藻”         Q3.日本人が一年間に食べるわかめの量は、平均で何グラム? ⇒A.約 2kg                     Q4.“わかめの日” っていつなの?            ⇒A.5月5日 (日本わかめ協会が決めたようです)      Q5.わかめを日本以上にたくさん食べている国は?     ⇒A.韓国 (日本人の約3倍)              Q6.“三陸産わかめ”の特徴は?              ⇒A.量と価格が全国トップ(収穫量が多くて高級ワカメ) 

さあ、きみは何問正解したかな!?             では、またの機会をお楽しみに〜(^o^)

地元土産に持たせる“こだわり”

東日本大震災で被災した地域の商店街で聞いた“地元土産”に関する話の抜粋です。

≪以下、現地の方の話≫

 【写真】 震災から約1ヵ月後の様子(石巻市門脇町)

・・・震災直後は、がれきが街中にあふれて悲惨な光景でした。メディアでも多く取り上げられて、現地の方の生々しい声が飛び交っていました。誰しもが “生きる” ということに必死でした。しかし、一方でそれは、多くの人たちの共感を呼んだ気もします。ボランティアさんもたくさん来てくれたし、近隣住民で助け合ったし、被災地関係の物はよく売れました。「被災した地域の地元土産です!」、「復興グッズです!」 と言えば振り向く人や、買ってくれる人も多かったです。

【写真】 震災から約2年後の様子(上図と同じ場所から撮影)

震災から1年が経ち、2年が経ち...時間の経過と共に、町からがれきが消えていきました。この地域にも笑い声が飛び交い始めたし、少しづつ震災前の日常を取り戻し始めました。平和な日常に戻るにつれて、メディアも取り上げなくなりました。復興が進んでいること自体は素晴らしいことです。しかし、それと同時に「被災地の地元土産です!」、「復興グッズです!」というフレーズで人々は振り向かなくなりました。しまいには、被災と関係無いのに“復興”というフレーズを利用して、自社商品の売り上げアップを狙う業者まで出てきた時は、怒りを通り越してあきれましたね。

 他の地域でお土産屋さんの前を通った時、ふと耳に入ってきたフレーズは …                     「な〜んか、ある種のブームが去ったような感覚だよね〜」  それを聞いた時は、妙に共感する思いがわいてきましたよ。

 【写真】 地元土産の話に耳を傾ける人たち

 消費者であるお客さんの多くは、“災害直後の目線” から “一般的な目線” になってきました。                 つまり…

× 復興が進むから買う  物が良ければ買う!       …ということは、被災した商店では今後、“守りの姿勢” ではなく “攻めの姿勢” に挑戦していかねば、と私的には感じています。

× 復興にからめた商品戦略  本当にいい物を作る商品戦略!× 復興にからめた宣伝  地域の持ち味を生かした宣伝!

「被災した地域に再建したお店...            そこに置いてある、何気ない一つのお土産...       ここに、如何にして“こだわり”を持たせるか...!?」

 【写真】 地元土産が並ぶ商店

被災地の復興度合が目まぐるしく変化している中で、お土産屋さんの経営戦略も目まぐるしく変化していますね...

≪以上、現地の方の話≫

 

 

支えられた者として!

現地のお母さん                     『自宅から三原山を見ると、所々山が削れていて驚いたのよ』 伊豆大島でボランティア活動をした時に、現地のお母さんから話を聞きました。

――――【 以下、お母さんの話 】――――

  あの日、10/15〜16にかけての深夜、私の寝室は土砂が来て、家の壁が壊れ、室内は土砂で一杯になっちゃったの。だから、本当だったら私は今、ここじゃなくてあの世にいるはずの人なのよ。じゃあ、なぜ私があの世じゃなくてここにいるのかって思うでしょ?

あの日、なぜか知らないけど、急に 『歯医者に行ってみようかしら〜』 と思ったの。でも、別に歯は痛くなかったのよ。それなのに、何とな〜く行ってみようと思って、土砂災害直前の10/15の昼、久しぶりに船で島外に出たの。

そして、土砂災害直後の10/16の昼に大島に帰って来たの、だから助かったのよ。                     今からしてみれば、なぜあんな行動をとったのか、自分でも不思議なのよ。きっと、ご先祖様や神様が助けてくださったんでしょうね。                          ご先祖様や神様から 『お前は、若いころにイタズラばかりしてきたから、もっと世のため・人のために尽くして、罪滅ぼしをしてから、あの世に行かなきゃね!』 って思われたから、私は生き残ったんでしょうね(笑)

 

(伊豆大島に)帰って来た時は、最初驚いたわ。自宅も町中も土砂がすごくて…(中略)…そんな状態だったから、隣町のかたや島外のかたが来てこの光景を見ると、私たちをすごく気遣ってくださるんですよ。確かに大変だったこともあるけど、振り返ってみれば “嫌だったこと” だけじゃなくて “良かったこと” もあったの。そういう話をすると、取材で来たかたから「え?良かったことって何ですか?」って聞かれるんだけど、一番良かったことは “いろんな人から支えられたこと” なんです。

私は最初 “ボランティアさん” と聞くと、 “作業する人” というイメージだったけど、実際はそれだけじゃなかったのよ...

例えばね…                        ○土砂の入った部屋の掃除をお願いしたら、私が自分で掃除する以上にきていにしてくれた。                ○ 嫌なことがあって冷めた表情をしていたら、作業中でも作業の手を止めて私を気遣ってくれて、いろんな愚痴を聞いてくれて心がスッキリした。                     …こういった形で、ボランティアさんは、私の気持ちの面まで支援してくださったの。しかも後から聞いたら、それ(気持ちの支援)に関しては、誰かにお願いされたんじゃなくて、ボランティアさんが自発的にやってくれていたの。だから、なおさらありがたくて…。

私の中のボランティアさんに対するイメージは、“作業する人” から “心の支えになる人” に変わったの!家の土砂がある程度片付いてきたので、年明けにはボランティアさんたちが自主的に企画して、餅つきをしてくれたの。

その光景を見ながら、ふと考えたの。 『こういう人たちの御恩に報いるためにはどうしたらいいかな?』 って。そして、私なりに思った報い方は…

  『私がいつでも笑顔で、元気に、今を生きること』

ボランティアで来てくださった方たちが、いつの日か、何かしらの縁で再び大島の地を訪れた時には、ぜひこの家に遊びに来てほしいの。その時に、お茶を出して、お菓子を出して、少しでも恩返しができればと思うんですね。              だから私は、ボランティアさんたちに恩返しするためにも、あの世へ行かずに、元気に生きていこうと思ってるんです!

――――【 以上、お母さんの話 】――――

 

 

本日の30分(?)クッキング

ある日、夕食のメニューで頭を悩ませていた時に、こんな物をゲットしました。

 レスキューフーズ☆

 今振り返ってみれば、これを頂いたことで私の悩みが一個解決されたのかと思うと、これも神様の導き(?)だったのでしょう...(‾▽‾)


 

ある日、ボランティア活動後にコレをもらいました。     パッケージによると...

これは「いつでもどこでも、僕の仕事を支えてくれる食事」らしいです。                         なるほど、これは助かる!(^^) 家に帰って早速、オープン!!

【セット内容】

写真の左上から:加熱袋、れんげ、発熱溶液、牛丼の素、箱、発熱剤、紙ナプキン、白いごはん

 ≪豆知識≫賞味期限は、常温で3年6ヶ月

なんか、小さい箱からいっぱい出てきました!!(*o*)       初心者(?)なので、説明書の手順通りに作ってみます。

何だか、プラモデルを作ってるみたいです!(^_^)

セッティングして約30秒で、かなりモクモクしてきました。(*o*)

調理時間:温め時間20分+蒸し時間10分=30分        作るのに30分、意外と時間がかかるんだな〜と思いました。  20分経つと結構落ち着いてきました。袋の内側が、汗をかいてるように見えます。                     30分経ちました! 盛り付けてみると…

 本日のメニュー『火を使わないのにアッツアツ?魔法の牛丼!』

≪豆知識≫                         他のタイプ:カレー、シチュー、中華丼、和風ハンバーグ…など

材料はたったの二つ!                   白ごはん(200g)と 牛丼の素(180g) だけ!           たったこれだけで、あっつあつの牛丼(380g) が作れます!   それではここで...


【お客様の声】                     (ボランティアさん数名に聞きました)          (^o^)「お店のレトルトをイメージしてたら、意外と具が多くて美味しかったです。」                   (‾▽‾)「ご飯が新潟のお米だったので、違和感なく、普通に美味しくいただきました。」                  (゜o゜)「調理の過程で周りを汚さない作りで、ナプキンまでついていたので丁寧だな〜と思いました。」


さあ、いかがでしょうか?レスキューフーズ!

これがあれば、あなたも今日から災害現場のシェフ!

料理が苦手な人でも大丈夫!

牛丼以外にもいろんな料理が作れます!

≪豆知識≫他の非常食(缶詰タイプ)                    栗五目ごはん、おかゆ、鶏肉うま煮、牛肉すきやき、牛肉大和煮、とりそぼろ、ポテトツナサラダ、みそ汁、ウインナーと野菜のスープ煮、つくねと野菜のスープ、缶詰の筑前煮(新商品)

テレビの前の皆さん(?)も、ぜひ一度、お試しください!(^o^)

参考:ホリカフーズのHP(http://www.foricafoods.co.jp/rescue/index.html

初めて分かった”絆”の意味

[ 被災地ボランティア参加者の声 ]

 東日本大震災が起きた当時、私はアメリカへ留学していました。震災直後は、私の先生やクラスメートたちが日本のことを想い、心配して、日本の状況を毎日のように私に尋ねてきました。

しかし、当時の私は情報不足で、周囲からの問いかけに対して何も答えられませんでした。そのことに対するもどかしさや恥ずかしさ、実際に現場に行って何もすることができないという悔しさが、今でも忘れられません。

 

約1年9ヵ月後…                      日本に帰国するタイミングに合わせて、被災地に行く機会を得ました。

 「被災して1年半以上も経てば、日本はもうボランティアは必要ないだろう…」

そう思っている人もアメリカにはいたので、私自身も複雑な思いを抱えながら、UPeaceの被災地ボランティアに参加することになりました。

2012年12月上旬、私にとっては初めての被災地でした。        活動前はこんなイメージでした。

       「被災地ボランティア=がれき撤去」

しかし、実際に作業をしてみると、リフォーム前の解体作業、ペンキ塗り、Xmasイベントの下準備など。がれき撤去ではない作業ばかりでした。

 

 また、作業中は私たちに「ゆっくりでいいんで、丁寧にやってください。」と、いつも声をかけてくださる他のボランティアさん。その言動から、本当に被災者を思う温かい心が伝わってきました。更に、作業時間外にも、現地の方たちから被災当時の話を聞いたり、疲れている方にマッサージをしたり、ちょっとしたプレゼントを贈ったり色々なことをしました。         活動後、気付いたらこういうイメージになっていました。

「被災地ボランティア=探せば、できることは無限にあるんだ」 

 

 ある日の依頼者さんは、津波によって大切な家族を亡くし、生涯忘れることのできない深い悲しみを背負われていました。にも関わらず、当時のことを何も知らない私に対して、笑い話を交えながら、教訓も交えて語ってくれました。また、作業をする私たちの現場に何度も足を運び、ねぎらいの言葉をかけてくれました。更に、休憩中にはお茶をもてなしてくれました。       依頼者さんの姿を通して、伝わってきたものがありました。

    温かい “優しさ” と 、たくましく生きる “強さ”

「震災後、ニュースや特集番組でよく耳にしていた “絆” という言葉。その言葉の意味が、初めて分かった気がしました…」

活動後に近くの銭湯に行った時、ふと聞こえてきたBGMに、私は驚きました。それは、私がアメリカでいつも歌っていた曲、私の生活といつも共にあった曲、私にとっては本当に思い入れのある曲だったのです。その曲を、私は日本に帰って来て被災地に行ったタイミングで偶然耳にしたので、とても驚きました。私はこの時、背後から私を励まし、応援してくれている神様を感じました。そして、神様からの温かい想いに感動して、一人涙が止まらなくなりました。

色々な形や方法を通して愛を伝えようとする、“ユニークな神様” でした!

「アメリカに戻ったら、今回の被災地ボランティアを通して見聞きしたこと、被災地の現状や活動のことまで、アメリカのみんなに伝えます!」

[ 以上 ]

噂に聞いてた “石巻病” とは?

被災地ボランティアに参加したメンバーの声を紹介します。  彼は、アメリカに留学している大学生です。2012年末に大学が休みの期間を利用して日本に帰国した際、4日間の被災地ボランティアに参加しました。

―――以下、メンバーの声(抜粋)―――

ある日の作業後、共に作業をした地元の方から夕食に招かれました。

その場には、私たちも含めたいくつかのボランティアチームが集いました。そこで私は、人生で初めて“統一教会”という立場でいろんな方々と交流したので、最初は少し不安がありました。 交流をする中で、彼らが発する言葉に私は驚きました。

「統一教会さんは、お酒もタバコもされないんですよね?すごいですね。」

「このボランティアのために全国から集まったメンバーは、ほとんどが初対面なんですね。一人一人に相当の意思がないと集まらないですよね。」

「普段、一緒にボランティアをしている知り合いから聞いてたんですよ。“統一教会さんはすごい人たちだ”って。だから、一度お会いしたかったんです。今日会えて、本当に良かったです。」

「最初は統一教会さんに対して不審の目を向けていたんですが、震災からずっと活動を共にしていく中で、それは間違いだと気付きました。毎回来るメンバーは違うのに、みんな真面目で一生懸命で。」

私はその話を、ただ聞いてるだけになっていました。

「あ、そうなんですか〜」

ただ、気持ちとしては、統一教会のことをとても誇りに感じていました。

最終日は、あるボランティアチームの拠点をお伺いしました。

すると、偶然にもそこで、アメリカのプロ野球選手にお会いしました。彼は極秘で被災地を支援していたのですが、今回のX’masに合わせて、支援してる地域の小学生たちに会おうと被災地に来ていたのです。プロでも一線で活躍している選手を間近に、私は興奮を隠せませんでした。ものすごく緊張して、いつも通りに話せませんでした。完全にカミカミで、何を言ってるのか自分でも分かりませんでした。それでも頑張って僕が英語で話したことを、他のメンバーがもう一度、英語で説明し直してくれたぐらいです。

私は、将来の夢がメジャーリーガーだったので、まるで自分の夢が形になって現れたようでした。そんな私を見たメンバーは、心からこう言ってくれました。

「この4日間頑張ったから神様がプレゼントをくれたんだよ!」

こういう最高の仲間たちとの出会いも、ボランティアに来て良かったことの一つです。4日間という短い期間でしたが、彼らとは心が通じ、これからも共に生きていく良き兄弟のような関係になりました。

活動を終えてみて意外でした。ボランティア活動中の様々な作業よりも、現地の人たちとの交流の方が印象的だったのです。  数日後、私はアメリカに戻ります...しかし、決めました!

 「次に帰国する時は、絶対、もう一度被災地に行く!」

...なるほど。これが、噂に聞いてた“石巻病”なんですね。

守れない約束

先日、現地の人から、近所に住んでいた夫婦の話を聞きました。

 ≪2011年3月11日 午後2時46分 地震発生≫

 【震災の当日】

そこは、震災直後に情報が混乱していたため、多くの人が逃げ遅れた地域です。

ある夫婦が、車に乗って出た直後、背後から津波に追いつかれました。波の勢いでご主人は車の外に押し出され、奥さんは車に乗ったまま流されました。ご主人は運よく、近くの電柱に手が届いたので、電柱の上に登りました。

車は、奥さんを乗せたまま流されていき、見えなくなりました…

 

【震災の翌日】

ご主人は無事でした。電柱にしがみついたまま、一晩を耐え忍んだのです。日の出と共に目に飛び込んできたのはガレキの山。まさに、戦後のような光景でした。考えることが山ほどあったけど、一番の気がかりは奥さんのことでした。

 「一体、どこへ行ってしまったんだ…」

 

【震災から数十日後】

やっとの思いで奥さんを見つけました。

すでに、息を引き取っていました。

発見者の話によると、

「私の家の二階に車が流されてきていた。その近くを通ると、後ろ髪を引かれるような感覚を覚えたから、ここにも人がいるんじゃないかな〜と思ってはいた。自衛隊が来たので調べてもらったら、車の下敷きになって出てきたのが…」

という経緯で発見されたのです。

ご主人は苦しみました。でもご主人は、自分自身以上に苦しんでる人がいることに気付きました。

それは、東京に住む奥さんのご両親…

 

【震災の数年前】

結婚する前、ご主人は石巻に、奥さんは両親と一緒に東京に住んでいました。

両親は、結婚に賛成してくれました。

しかし、

「どうして、そんな田舎に行くんだ。こっち(東京)に来たらいいだろう!」

奥さんが石巻に行くことには反対しました。

「絶対、石巻で娘さんを幸せにします…」

両親を説得して、約束して、奥さんを石巻に連れて来たご主人…

 

【震災から数十日後】

奥さんの両親と交わした約束が、頭の中を埋め尽くしました。

「妻を幸せにするって約束したのに、守れないじゃないか…

 一体、どうやって幸せにしてあげたらいいんだ。

 結局、俺は嘘つきか…」

 

【震災から二年後】

ご夫婦が住んでいたアパートも、きれいになりました。

隣の部屋の人は戻って来ました。

でも、ご夫婦が住んでた部屋は、未だに誰も戻って来ません…

震災を通して出会った生き方

前回に引き続き、UPeace(被災地ボランティア)に参加したメンバーの体験談を紹介します。

 

――――【以下、前回の続き】――――

 2012年Xmas、再び被災地を訪れました。ある日は、現地視察で一年前と同じ場所へ行きました。

【2011年夏に撮影】

 

 【2012年冬に撮影】

 

一年前と比べると、周囲のガレキが減っていたり、慰霊碑が建っていたり、津波の高さが刻まれた柱が立っていたり、雪も降っていたので、景色は全然違いました。しかし、『がんばろう!石巻』の看板だけは、あの時のままでした。

 

この時の作業は、クリスマス会の手伝いや土地の整備でした。

一年前と比べて、最も大きく変化していると感じたのは、現地の人たちの “復興に対する想い” でした。

 

昨年(2011年8月)の時は、今を生きることに精一杯で、復興まで意識がまわらない人が多かったように感じます。しかし今回(2012年12月)は、石巻全体が復興に向けて前進しているように感じました。そして、人と人とのつながりこそが、復興の一番の源になっているように感じました。

 「失ったものは多いけれど、みんなで協力して今を共に生き、希望に向かって頑張っていきます!」

ボランティアに向けて話をしてくれたお母さんの力強い姿が印象的でした。

 

活動最終日の作業後は、津波の爪痕が残る海岸へ行きました。

 【石巻市魚町の海岸】

 皆が口を開けば、同じ話題ばかりでした。

 「こんなに美しい海から津波が来たなんて...」

 「まるで、夢のようだ...」

活動が終わったので、振り返ってみたのです。

 

心に残ったこと!

それは、“為に生きる道”は、与えられる側の幸せになるだけではないんだ。

与える側の幸せにもつながっていくんだ。

それが、“文先生の行かれた道”であり、“世界が一つになる道” なんだ...

 

私の願い!

それは...

人と人との間に育まれた”絆”が、石巻全体に広がり、日本に、世界に広がっていきますように!

そして、ずっと東北を忘れずに、共に前に進みたい!

 

――――【 完 】――――

震災を通して出会った神様

前回に引き続き、UPeace(被災地ボランティア)に参加したメンバーの体験談を紹介します。

 

――――【以下、前回の続き】――――

 被災地ボランティアも後半に入りました。 ある日は、被災した地域の視察に行きました。

目にするもの、耳にするもの全てから、語りきれない深刻な当時の状況を感じました。 

時には作業現場で、時には集会所で、また時には銭湯で、現地の方からいろいろな話を聞きました。

−おばあちゃんの “地獄を見た” と言って涙ぐんだ目...

−震災翌日から探し始めて、今も待ち続けて、それでも帰って来ない愛する子供...

−黒い海水にのみ込まれすぐ隣を流れていく友達の姿...

−がれきに埋もれ、頭だけ出ていた母親の姿...

今回の震災は、現地の方にとって、決して忘れることができない記憶として、そして忘れてはいけない記憶として残ると思いました。それは “過去” のことではなく “今” であり、 “未来につながること” として語り継がれていくだろう...そう思いました。

  

 この期間を通して、人と人とのつながり、 “絆” の素晴らしさを感じました。そして、神様は救いたくても救うことができなかった “痛み” や “苦しみ” を、誰よりも抱え込んでいるのだと感じました。震災が、神様を “見失うきっかけ” になったと同時に、 “新たな関係を結ぶ出発点” にもなったのです。

 

最終日、東京へ帰る日の朝、他のボランティアさんが、私たちを見送ってくれました。

 「いずれ、また、ここに来よう...」

そう思いながら、ボランティア活動が終わったのです。

 

そして、約一年後 2012年 Xmas... 私は、再び石巻を訪れます...

――――【次回に続く】――――

震災を通して出会ったもの

2011年夏と2012年冬にUPeace(被災地ボランティア)に参加したメンバーの体験談を紹介します。

 

――――【以下、メンバーの体験談】――――

 震災が起きた2011年3月11日、揺れている様子を動画で撮り、友達と何回も見ました。

 「神様は私たちを見捨てたのか...」

テレビを見ても、新聞を見ても、ネットを見ても実感が湧かない。やがて無関心になり、他人事のようになりました。募金している人を見ても偽善だと思うようになっていました...。当時の私にとって、震災は神様を見失うきっかけとなりました。

 

そんな時、UPeace(被災地ボランティア)の話を聞きました。

 「神様はもう信じない...そう思っていた。けど...」

私には、一つだけ確かめたいことがありました。

 「...なぜ、こんな悲惨なことが起きたのか?」

何かの衝動に押し出されるように、被災地へ向かいました。 

石巻市内に入った時、私たちを迎えてくれたのは大きな花火でした。その日は偶然、年に一度の夏祭りの日だったのです。

 「この期間は、“何か”がありそうな気がする...」

そんな思いを胸に秘めつつ、被災地ボランティアがスタートしたのです。

 

ある日は、夏の暑い日差しの中で、たくさんのボランティアさんと、生々しい家庭用品が埋もれている側溝を泥にまみれながら掘りました。

ある日は、多くの人が亡くなった地域へ行き、ぐちゃぐちゃになった墓地を掃除しました。人がいない。動物がいない。そんな地域をたくさん見ながら少しづつ現実を受け止めていきました。

ある日は、さまざまな宗教のひとたちと話しました。仕事を辞めたり、生活を捨ててまで復興の為に駆け付ける人もいました。何の報酬も求めずに、ただ汗を流し、現地の人たちに笑顔を与える。そんな人たちと過ごす場所が、自然と温かく、居心地のいい場所になっていた気がします。

“復興”という共通の目標を持てば、こんなにも皆が、本当の家族のような深い関係になれるのだ、と衝撃を受けました。”絆”を肌で感じたのです。

 

あっという間に、前半の活動が終わりました。

 「この地を、もっと復興させたい。

  その先に、何かある気がする...

  まだ、私が気付いていない“何か”が...」

私自身の心が、少しづつ変化していくのを感じつつ、後半の活動に向かっていくのでした...

 

――――【次回に続く】――――