私が生き残った意味

東日本大震災で被災した人から聞いた話です。震災当時は60歳で、仕事を定年退職されたばかりの方でした。

あの日、私は自宅で被災しました。地震が収まった後、私はすぐに保育園にいた孫を迎えに行きました。自宅へ戻り、残っている家族を連れて避難所へ行こうと荷物を準備していた時、津波に襲われました。津波の圧倒的な力に成すすべなく、生きるか死ぬかの瀬戸際で必死にもがきました。他の部屋にいる妻や孫が気がかりでしたが、助けに行く余裕はありませんでした。

何時間が経過したか分かりませんが、津波の勢いは落ち着いて、静かなプールのような状態になったのが分かると、私はすぐに家族を探しました。その時はもう夜中で視界は悪かったですが、流されたであろう場所を探し回っていると、息を引き取った妻を見つけました。

しかし、引き上げようとすると上手くいきません。妻の左手が何かに引っ掛かっているようでした。妻の左手の先をよく見てみると、左手で何かを必死に掴んでいるように見えました。そこで、妻の左手の先にあったがれきを片付けてみると、そこには息を引き取った孫の姿がありました。妻の左手は、孫の手をしっかり掴んでいたんですよ。その光景を見ながら「おまえは、命を落とした後もずっと孫を守り続けてくれたんだな…」と、込みあげてくる想いがありました。でも、不思議と涙は出ませんでした。もう、あまりにも悲し過ぎたからか、不思議と涙は全く出なかったです。人間は、本当に悲しくなると涙も出なくなるんだな…と、思いました。

その後、孫が通っていた保育園の園児たちは「先生に連れられて避難したおかげで、皆助かりました」と聞きました。それを聞いた私は「私が孫を保育園へ迎えに行かなければ、孫は死なずに済んだんだ」「どうして迎えに行ってしまったんだ?」「孫を殺したのは私だ」「私なんかが、なぜ生き残ったんだ?」と何千回、何万回悔やんだか分かりません。

震災直後は、何に対してもやる気が出ませんでした。出てくる想いは後悔しかなかったです。しかし、1~2ヶ月くらい経った頃、転機がありました。

ある日、被災した街中で、ある光景を目にしました。私が車で街中を走りながら赤信号で止まった時、ふと道路脇の歩道を見ました。すると、がれきが散乱する中、足元に気をつけながら街中を歩いている母親と子供の姿が目に入りました。お母さんに手を引かれる子供が元気そうに、でもちょっと不安そうな表情で歩いていました。その光景を見た時、手を引かれて歩く子の姿が、まるで自分の孫のように見えたんです。もし、自分の孫が生きていたとしたら、この子のように、不安でいっぱいな日々を送っていただろうな…と思ったんです。その時「こういう子供のために、何かしたいな…」という気持ちが芽生えたんです。

それ以降、外出する時は自然と子供に気を配るようになりました。すると皆、何かしらの不安を抱えていそうで、どこか辛そうな表情をしているように見えました。そして、私は徐々に「孫にしてあげれなかったことを、こういう子供たちにしてあげれないものか?」「こんな自分でも、助けになれるんじゃないか?」と、少しづつ前向きなことも考えるようになりました。

この頃は、まだ仮設住宅ができる前でした。避難所では人が溢れて大変なのに、住む場所自体が探しても見つからず、困っている人が多かった時期です。そこで、私はいろいろと考え抜いた末に、当時自分が所有していた15件ほどの貸家をリフォームして、格安で貸してあげることにしました。

しかし、一口にリフォームと言っても簡単ではありませんでした。貸家も全て屋根の高さまで津波で被災していたため、被害が小さかった家でも1ヶ月程、全ての家のリフォームが終わるまでは1年近くかかりましたが、何とか形になりました。件数は限られていたため、小さな子供をもつ母親や生活に困っていそうな家族を優先的に入れました。

入居の際に挨拶に行くと、いろんな家庭がいました。入居する家が早く見つかったことに感動して、家族皆が泣きながら挨拶した家庭。入居できたことがあまりにも嬉しくて、手が痛くなるくらい固い握手を交わしてきた家庭。入居できた安心感で緊張の糸がゆるんだのか、号泣する家庭もいました。いずれにしても、皆さん喜んでくれました。その姿を見ながら「私が生き残った意味は、これかもしれない」と思ったんです。

仕事も定年を迎えて、ちょうど自由な時間が増えたところです。私は元々、定年後は自分の好きに生きようと思っていました。でも今は、もう少し世のため人のために生きて、天国にいる妻や孫に見られても、恥ずかしくない人生にしたいです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です