2011年9月、東日本大震災の被災地でがれき撤去をしていた時、依頼者のお母さんから聞いた体験談です。
震災当時、私は自宅にいたのですが、大きな揺れに襲われて焦りました。町内放送で津波警報のサイレンや「避難してください」のアナウンス響き渡る中、自宅が海のすぐ側だった私は、津波の危険を感じたからです。
すぐに避難しようとしましたが、小さな子供が二人いたため、歩いての避難は難しいと思い、車で避難することにしました。車の後ろの席に子供たちを乗せながら町会放送を聞いていると、最初は「3mの津波が予測されますので…」から始まり、気付いたら「6mの津波…」「10m以上の津波…」と、コロコロ変わるアナウンスを聞きながら困惑しました。一方、避難先で必要な最低限の物を車内へ積んでいる内に、避難も遅くなってしまいました。
結局、車で家を出る時は、もう周囲の人たちがほとんど逃げた後でした。でも、そのおかげで車の渋滞はほとんど無かったため、すぐに避難できそうだと思い安心しました。
家を出発して、海から遠ざかる方向へ車を走らせた時です。ふと、社内のルームミラーから後方を見ると、車のはるか後ろの方から、津波が勢いよく迫って来るのが見えました。その瞬間、私は自分の目を疑いました。一瞬時が止まったような感覚に陥りました。その後、 “ハッ” と我に返ったように全力でアクセルを踏む自分がいました。
車がぐんぐん加速する中、道路横の住宅街を一瞬だけ “チラッ” と見た時、道路脇の家の二階の窓からおじさんが体を乗り出している光景に気付きました。すると、そのおじさんと目線が合い、こちらを見て必死に叫びました。
「助けてくれー!」
その瞬間、時が止まったかのようでした。
えっ!?どうしたらいいの??
あらゆる想いが頭の中を交錯しました。
あのおじさんも助けなきゃ...おじさんを車に乗せても、ギリギリ逃げ切れるんじゃないか...でも、今ブレーキを踏んだら、おそらく津波に追いつかれる...母親として、この子供たちは絶対に守りたい...でも、あのおじさんを見捨てることもできない...いっそのこと、私と子供たちも、一緒にこのお宅の二階に避難しようか...
いろんな想いが交錯しても、私に与えられた選択肢はハッキリしていました。
ブレーキを踏むか?アクセルを踏み続けるか?二つに一つ。 どちらも踏みたいが、片方しか踏むことはできない。
一瞬の判断を迫られた私は、考える間もなく、直感で行動していました。
気付いた時、私が踏んでいたのはアクセルだった...
しかし、車よりも津波のスピードの方が速く、徐々に追い付かれて来ました。やがて、ルームミラーとサイドミラーは両方共、一面に津波の水しぶきしか見えなくなり “まずい” と思いました。
その時、車が川に差し掛かり、橋を渡って向こう岸へ移れました。すると、この川の川幅が広かったおかげで、津波が全て川の方へ流れ落ちてくれて、私と子供たちは助かりました。
その後、無事に避難先へ到着しました。車から降りて荷物を降ろしていると、車の後ろ半分くらいが津波の水しぶきを受けて濡れていることに気付き、ギリギリで逃げ切れたのだと分かりました。子供たちも無事だったので、母親としての責任を果たせた気がして、ホッとしました。
数日後、おじさんのことが気になっていた私は、おじさんの家を訪ねたのですが、その場所に家は残っていませんでした。後日、その地域に住んでいた方たちと話す中で、おじさんが亡くなったことを知りました。
半年後、おじさんから聞いた「助けてくれ!」 という叫び声は、今でも私の耳から離れません。こちらを見ながら深刻に助けを求める表情が、私の脳裏に焼き付いています。
あの時に “アクセルを踏んだこと” は、二人の子供に責任を持つ “母親” の判断 として、正しかったのかもしれません。しかしその行為は、見方を変えると “ブレーキを踏めなかったこと” にもなります。それは、助けを求められた一人の “人間” の判断 として、正しかったと言えるのだろうか…
当時は津波から逃げ切れたことで、周囲からは「良かったですね」とか「奇跡的ですね」と言われることが多かったです。しかし、助かった側からすると、両手放しで喜べたわけではありませんでした。
この時の私は、体には傷ひとつ負いませんでしたが、心に傷を負った状態だと感じました。
一般的に、体に付いた傷は目立ちますが、時間の経過と共に治ります。病院へ行けば薬ももらえて、より早く、きれいに治ります。その一方で、心の傷は目立たず、他者が見ても気付きません。しかし、時間が経過しても治りは悪いし、完治はしません。薬が何かも、よく分かりません。
心の傷は、体の傷より辛い症状なのだと分かりました。