東日本大震災で被災した人が、被災体験から得た教訓を教えてくれました。
震災当時、私は高校2年生で、宮城県南三陸町の沿岸地域(津波が約15m届いた地域)に自宅がありました。
東日本大震災が発生した3月11日、私は自宅の隣町にある集会所で部活の合宿中でした。2時46分、すごい揺れを感じました。幸いにも、集会所は高台に位置していたため津波は届かず、その場所自体が避難所にもなっていたため、私は自宅へはすぐ帰らず、状況が落ち着くまでは部活仲間と共に集会所で過ごすことにしました。翌日になると、私たちも含めて避難者が150名以上に増えました。一夜にして避難所となったその集会所で、私たち部活仲間は炊き出しや物資配布、避難所の運営など、ボランティアとして手伝いました。
震災から1週間後、私たち部活仲間はそれぞれの自宅へ帰りました。しかし、私が帰宅してみると、家があったはずのその場所には、建物らしき物が一切ありませんでした。地面は一面、泥とがれきでぐちゃぐちゃだったため、最初は自宅の敷地もどの場所か分かりませんでした。道路の形状、津波に流されずに残ったマンション、近隣の山々など、目印になりそうなものの位置関係を確認しながら「自宅があったのは、おそらくこの辺りの場所だろう」と推測しました。そこに散乱していたがれきを横にずらしてみると、その下には、辛うじて家の基礎部分が残っていました。そこで、家の敷地の端から、その基礎部分に沿ってゆっくり歩きながら「位置的には、ここが玄関かな?」「この場所は風呂場で、こちらがトイレかな?」と、独り言のようにつぶやきました。
後日の話になりますが、家族アルバムが1冊だけ見つかりました。自宅から車で10分走った先の山のふもとから見つかり、津波でここまで流されてきたのかと思うと、驚きました。
自宅跡地を一通り見た私は、近くの高台にある避難所へ行き、3週間過ごしました。そこで家族とも再開できたのですが、喜びもつかの間、私はすぐに避難所の運営ボランティアを手伝い始めました。当時は避難所も人手不足でしたし、何かしていた方が、気も紛れて良いと思いました。
震災1ヵ月後、私は内陸に位置する親戚の家へ引っ越したことで、生活環境が一気に変わりました。寝袋にくるまりながら数百人で雑魚寝をしていた避難所生活からガラリと変わり、静かな部屋のベッドで寝る普通の日常生活になったのです。当然、喜ばしいことなのですが、当時の私にとっては生活環境の変化があまりにも突然過ぎたため、そのギャップに違和感を感じ、しばらくの間は慣れませんでした。落ち着いた空間のはずなのに、どこか心は落ち着かず、しばらくは寝付くのに時間がかかりました。
その影響もあったのか、高校が再開するまでの期間(震災2ヵ月後まで)は、安全な親戚の家から被災現場の広がる避難所へ、ほぼ毎日のように通いながら、朝から晩までボランティア活動をしました。
しかし、その時の私は自宅や故郷、友人までも失って人生最大のストレスを抱えていたため、私のことを心配する両親からは、ボランティアを止められることが何度もありありました。「今日はボランティアはせず、家で休みなさい」と言われることは度々あり、時には「お前はそんなことしなくていいんだ!」と怒鳴られたこともあります。それでも私は、ボランティアを絶対に休まず、毎日続けました。避難所では、私以上に辛い思いをして苦しんでいる人が周囲に大勢いたので、そんな人たちを見ていると居ても立ってもいられず、気付いたら体が勝手に動いてました。
震災2ヵ月後(5月のGW後)、高校3年生の新学期が約1か月遅れでスタートしました。すると、学校へ通い始めたことがキッカケで、自分の気持ちも少しづつ落ち着きを取り戻して、ようやく普段の日常生活に戻っていけました。
その後、私は無事に高校を卒業して社会人になり、生活も落ち着きを取り戻しました。街の再建も進む中で、震災の痕跡は徐々に減ってきています。震災当時は無我夢中で分かりませんでしたが、後から改めて振り返ってみた時、気付いたことがあります。
震災当時の私が、なぜ、あそこまでボランティア活動にこだわっていたのか?それは、ボランティアで手助けした人たちが私に返してくれる ❝笑顔❞ や ❝感謝の言葉❞ があったからでした。つまり、一見すると私がボランティアを する側 に見えていたのですが、気持ちの面では逆で、私がボランティアを される側 になっていたのだと分かりました。
この時の経験を通して、私はボランティアの捉え方が180度変わりました。以前は、ボランティアは一方通行、受ける側にのみメリットがある活動だと思っていました。しかし今は、ボランティアは双方向、授ける側にもメリットがある活動だと、私は思っています。