教員から語り部へ [前編]

東日本大震災の語り部をしている人から聞いた話を紹介します。震災当時、沿岸地域の高台の上に位置する中学校で教員をしていた人です。

震災当時、私は中学校にいたのですが、津波は校舎までは届かず、生徒たちは皆無事でした。しかし、内陸に位置する小学校へ通っていた私の娘が犠牲になりました。あまりにも突然過ぎて、最初は涙も出ませんでした。娘は6年生だったので「震災があと1ヵ月待ってくれれば、私の中学校へ入学して来て、助けてあげられたのに」と、何回悔やんだか分かりません。しかし、震災翌月からはまた、新たな新入生も入学して来ます。私と同じような傷を負った生徒たちのことを想うと、私自身が立ち止まるわけにはいきませんでした。

新年度を迎えて、新入生たちが入学してきました。「もし震災が無ければ、私の娘もここにいるはずだった」と思いながらも「娘にしてあげられなかったことを、せめて新入生たちに」と思うように切り替えて、前へ進みました。この当時は、1日1日が必死でした。

すると、ある時から不思議な感覚を持つようになりました。生徒が生徒ではなく、別の存在に見えてきたんです。それは、なかなか表現しにくい感覚でしたが、一言で言うなら “命” です。生徒一人ひとりが “ただの人間” ではなく “輝く命” に見えたんです。言葉を換えれば、尊い命を与えられた輝く存在、または唯一無二の価値を持つ貴重な存在。生徒一人ひとりに対して、そう感じるようになりました。

震災4年後、私は教員を辞めました。そこで、教員生活を振り返ってみると、震災の前と後で、ある変化に気付いたんです。

教員時代、私はクラス担任をしていました。すると、同じ生徒たちと1年間を共に過ごすので、大半の生徒とは仲良くなります。 でも中には、ぶつかり合う関係のままで終わってしまう生徒や、何かしらのわだかまりが残ったまま終わってしまう生徒もいました。それが震災前です。

それに対して震災後は、心に深い傷を抱えて荒れる生徒が増えるだろう、生徒とぶつかる回数も増えるだろう、と覚悟していました。しかし、震災後の4年間を振り返ると、不仲のまま1年を終えた生徒は一人も思い浮かばなかったんです。生徒たち全員と、とても仲良くなれたんです。これは、私の教員人生にとっては大きな変化でした。

教員を辞めた後、私は語り部や講演活動を含む様々な活動に取り組むようになりました。

親の願い

東日本大震災当時に中学生だった女性の話を、震災から2年後に聞きました。

私は、震災前の時期は反抗期だったので、母と毎日のように喧嘩してました。それが落ち着き、やっと仲良くなってきた時に震災があり、母が犠牲になりました。

それから半年後、母からの手紙 が見つかり、家族みんな驚きました。震災前に、母が家族の一人ひとりに対して書いてくれていたものでした。自分宛ての箇所を読んでいると、自然と涙がこぼれました。手紙には『いっぱい手伝ってくれて、お母さんはとても感謝してました』とあり、私の気持ちを理解してくれていたと分かり、嬉しかったです。また、夢についても触れていました。読み進めると、母は私に対して、夢に向かって頑張ってほしいと願っているのが分かり、私は “ハッ” としました。

それまでの私は、母を亡くして悲しいという “自分の気持ち” だけで、いっぱいいっぱいでした。しかし、この手紙を読んだ時、初めて “母の気持ち” に気付いたんです。母は、私に対して悲しんでほしいのではなく、夢に向かって進んでほしいと願っているのだと思いました。

そこで私は、自分の夢は何かを考えてみましたが、いきなり考えたところで、すぐに見つかるはずもありません。結局、夢は思いつきませんでしたが、母のことは大好きだったと改めて思ったので、“母のようになりたい” とは思いました。そこで、普段の母の行動を思い出してみると、家の掃除や洗濯、料理、お弁当作りを毎日欠かさずやっていました。…ということは、同じことを私もやれば、少しは母に近付けるかもしれないと思いました。

翌日から私は、料理や家事を始めました。料理経験が無くて最初は大変でしたが、続けました。それからは1日も休まず、今でも毎日続けています。ただ私は、料理があまり得意ではないため、食事中に家族からダメ出しされることもよくあります。それでも続けてるせいか、最近では「お母さんに似てきたよ」「料理してる時は、お母さんにそっくりだよ」と言われることもあります。

料理をしている時は、ちょっと不思議なんですけど、天国にいる母が私の近くまで来てくれて、私のことを応援してくれるような… 元気付けてくれるような… そんな気がするんです。例えば、学校で嫌な出来事(友達とケンカしたり、テストで悪い点数を取ったり)があった日でも、家へ帰って台所に立ち、包丁を持って料理を始めると、心が落ち着いてくるんです。どこか安心できるんです。そのせいか、外で物音がすると「お母さんが帰って来たかな?」と思ってしまう時が、今でもよくあります。

手紙を読んだあの時は、夢を聞かれても答えられませんでしたが、今なら答えられます。“大好きだった母のようになりたい” それが私の夢です。

次の世代へ伝える仕組み

宮城県石巻市の沿岸地域に【がんばろう!石巻】と書かれた看板が立っています。2016年にこの場所を訪れた際、看板を設置した人から聞いた話です。

         「がんばろう!石巻」の看板(2016年9月16日)

3月11日、この地域は6.9mの津波に襲われました。私も自宅兼店舗を失い、避難所に身を寄せました。

数日後、落ち込んでいる友人と話しながら、ふと『がんばっぺ』と言っちゃったんですが、まるで自分自身もそう言われたような気がしたんですよ。“私も頑張らなきゃな”って思いになました。

10日後、店があった場所で何かないか探していると、がれきの下から工具箱が見つかりました。箱は泥だらけでしたが、中からはドリルなどの工具が出てくるのを見て、まるで宝物を発見したような気持ちになりました。少し希望が湧きました。家も無くなり、職場も無くなり、できること自体が限られている環境だったので “できることは全部やろう” と思いました。そこから、私なりにいろんなことに取り組んだのですが、その中の一つが看板作りでした。

         看板が設置された頃の様子(5月22日)

1ヶ月後、店があった場所に【がんばろ!石巻】の看板を設置しました。製作から完成までは5日かかりました。友人にも協力してもらい、店の周辺に流れ着いた大きめの板を店の跡地の基礎部分に取り付けて、ペンキで文字を書きました。当時は、看板周辺が一面がれきだらけで、自衛隊も遺体捜索をしている状況だったため、看板を見て疑問の声を投げかける人もいました。しかし、看板を見て手を合わせる人、『励まされた』や『勇気付けられた』と言う人もいて、やって良かったと思いました。

  看板横に設置されたツリー(2012年12月24日)
  看板横に設置された鯉のぼり(2013年5月3日)

その後、5月になると鯉のぼり、8月には七夕飾り、12月にはクリスマスツリーなど、季節に合わせていろいろな物を設置しました。毎年の3月11日や、震災から1000日ごとの節目に合わせて追悼の場を持ちました。

5年後、看板の場所が町の再開発工事に影響することから、設置場所を若干海側に移転させることになりました。ちょうど看板自体も老朽化していたため、サイズやデザインは全く同じで新しい看板を作り、設置しました。

    撤去される前の看板(2016年3月11日)
  新たに設置された2代目の看板(2016年5月1日)

この2代目の看板は、近くの中学校の生徒さんも一緒に製作しました。今後は、ペンキの塗り直しや定期的な補修作業も一緒にやりたいと考えてます。月日が流れることで震災の風化が懸念される中、この活動が 震災を未来の世代へ伝えていく仕組み の一つになればと思っています。

自然と寄り添う生き方 [後編]

東日本大震災の被災地で、農家のお父さんから聞いた話です。この人は震災前から農家を経営していて、お米を中心に複数の野菜を栽培していました。

震災後、新たにお米の無農薬栽培に取り組みました。

しかし、始めてから最初の3~4年は大変でした。今までは農薬のおかげで抑えられていた虫や雑草や病気ですが、農薬に頼らずにそれらの対処をするのは簡単ではありませんでした。全く実りが無い年もあり、苦労だけが増えたように思ってしまう時もありました。始めてから5~6年くらい経って、ようやく形になってきました。

ある時、地域の子どもたちと一緒に、うちの畑で生き物の生態調査をしました。すると、田んぼからいろんな種類の生き物が見つかるんで、子供たちも大喜びで専門家から驚かれたことがあります。無農薬栽培の成果の一つだと思い、嬉しかったです。

また、震災直後にボランティアでこの町に来たネギ農家の人と出会いました。同じ農業仲間ということで話が深まる中で「この地域の気候なら、おいしいネギが育ちますよ」と、自身の畑のことや栽培のノウハウを教えてくれました。震災前は、この町でネギを生産している農家が無かったので、聞く話の一つ一つが新鮮でした。この縁がキッカケで、この町で前例の無かったネギ栽培にも挑戦しました。うちで栽培している他の野菜と似た要領かと思いましたが、取り組んでみると勝手が全然違い、最初は慣れませんでした。しかし「この気候ならいけるよ」と勧められただけあって、要領を掴めば安定して育ってくれるようになりました。

それから数年後、気付けばネギ栽培は、うちの畑でメインに育てる農作物になっていました。すると徐々に、町内にもネギを栽培する農家が増えてきて、町からも一つのブランドとして取り上げられるようになりました。それ以外にも、お米の無肥料栽培、ワイン用のブドウ栽培、漢方で使用する薬草の栽培など、日々挑戦を続けています。

一方、農業に関心があるからやりたい・学びたい人たちを受け入れる農業体験プログラムも作りました。

一般的な農業体験は、種を植えてから収穫するまでの全工程を体験しようと思えば、半年~1年といった長い期間を必要とします。短い期間では、生産工程の一部分しか体験できないからです。これが、農業体験の短所とも言えますが、一通り経験するのに時間がかかるんですね。手軽さが無いんです。しかし、うちの農業体験は少し違います。

参加者はまず、自身で畑を耕して種を植えて水をあげる工程を行いつつ、以前の参加者が植えた作物を収穫して出荷する工程も行います。これを繰り返すことで、参加者は常に、自分が植える作物の最初の工程と、以前の参加者が植えた作物の最後の工程を同時に経験するんです。

この形は、“次の参加者のためを想って私が種をまく” という意味を込めて “恩送りファーム” と呼んでいます。そのため震災後、最初は “ボランティア” としてこの町を訪れた人が、次は農業体験の “参加者” として町を再び訪れる、というケースもあります。

震災後は、本当にいろんなことがありました。一連の出来事で学んだのは、自然との向き合い方でした。仲良く付き合いたいと思っていた私は、例え苦労が増えるとしても、自然に寄り添う生き方を選びました。自然と人間は切っても切り離せない関係です。自然は時によって、人を生かしもすれば殺しもしますが、どちらに転ぶかは人間次第です。私は多くの人に、“自然に対する良き向き合い方” を見つけていただけたらと思っています。

自然と寄り添う生き方 [前編]

東日本大震災の被災地で、農家のお父さんから聞いた話です。この人は震災前から農家を経営していて、お米を中心に複数の野菜を栽培していました。

東日本大震災をきっかけに、うちの畑はもちろん、この町の農業も大きく変化しました。

震災前、元々この畑では、お米を栽培する際に農薬を使ってました。しかし、毎年使い続ける内に、害虫も徐々に強くなってきて農薬の効きが弱くなり、それに負けじと農薬を散布する回数がどんどん増えていきました。大量の農薬を吸収して収穫されたお米を食べながら “お米と言うより農薬を食べてるんじゃないか?” と思う時もありました。大量の農薬は、大地に染み込んで他の農作物にも影響したり、川を伝って海に広がると漁業などの他業種にも影響するので、環境に良くないです。

そんな時に震災がありました。この畑は少し内陸にあったので津波は大丈夫でしたが、揺れはすごかったです。揺れが収まっても、生活インフラは止まったままでした。すると、近隣住民たちが各家庭に備蓄していた米を持ち寄って集会所に集まり、お米を炊いて、おにぎりをたくさん作って配りました。早くも、震災当日の夕方には炊き出しをスタートさせたんです。この炊き出しがあったおかげで震災翌朝、自衛隊が来る前から、消防団員数十名が救助活動を展開できたんです。

この時は、お米の大切さを身に染みるほど痛感しました。自然の力は、農作物を通じて人を生かしもすれば、自然現象を通して人を殺しもするのだと思い、“自然との向き合い方” を考えさせられました。 そこで、自然とケンカしたり、力で押さえつけようとするのではなく、私は “自然と仲良く付き合いきたい” と思いました。この出来事が、その後の自分自身の農法を見直すキッカケにもなりました。

その一方で、震災直後は全国から多くの人たちがこの町の支援に駆け付ける中で、様々な人たちとの出会いがありました。例えば、農業があまり盛んではない地域の人で「うちも米農家で、ササニシキを無農薬で作ってるんですよ!」という関西のお米農家の話、ネギの生産が有名な地域の人で「この地域の気候なら、おいしいネギが育ちますよ!」とネギ栽培のノウハウを教えてくれた関東のネギ農家の話など、聞きながら可能性を感じました。

更に震災後、この町が復興の方針として打ち出したのは「循環型の町づくり」でした。これを機に、農薬をできるだけ使わない農法に変えれば、“環境にも優しいし町の復興にも貢献できる” と思いました。様々な人たちとの出会いを通して意欲もわいてきたので、新しく無農薬栽培への挑戦をスタートしました。

〔後編へ続く〕

私の良心の望み

東日本大震災の時、津波に流された経験を持つお母さんから聞いた話です。

あの日、私は津波が来た時、私は逃げ切れずに流されちゃったんです。でも、山の麓の流れが穏やかな場所に流されたおかげで、自力で木につかまることができて奇跡的に助かったんです。

急いで山の上の高台へ逃げようと2、3歩踏み出した時、後ろから「たすけてくれ~!」って声が聞こえたので “えっ?” と思い、津波の方を振り返ると、流されてくる人が3人見えました。木の枝を伸ばせば届きそうな近い距離に流されて来ましたが、津波の流れが悪く、自力で助かるのは難しそうでした。私は直感的に、   “すぐ救出しなきゃまずい” と思い、助けに行こうとしました。

しかし、私は一瞬迷いました。雪が降る中、津波で一度流されてしまった私の体は、冷え過ぎて震えてました。体の節々も痛く、息も切れて、人を助けるだけの体力が残っていないと思ったので “下手したら 、助ける側の私が逆に流されるかもしれない” と、頭をよぎりました。

その時、「ゴォーーーー」という音が聞こえてきました。   海を見ると、更に高い津波が迫って来て “この場所にいたら、今度こそ助からない” と思ったんです。考えてる余裕はありませんでした。私は山の方を向いて、必死に津波から逃げました。その後も「助けてくれ~」と何度も聞こえましたが、聞こえない “フリ” をしました、無視したんです。

やっとの思いで津波が来ない高さまで登り、私は助かりました。その後、避難所で家族と再会できました。私は家族や友人に、自身の行動をありのまま話しました。             子供からは「お母さんが助かって良かったよ!」と何回も言われ、友人は「あなたが無事で何よりだよ」と気遣ってくれるばかりで、責められるようなことは無かったです。

それから1年半後、がれきは町からほとんど消え、お店もだいぶ再開して、自宅の修理も終わりました。落ち着いた日常に戻る中で気持ちも徐々に落ち着いてきたのですが、誰かから責められているような感覚は、私の中からずっと抜けませんでした。    そこで “自分は一体、誰から責められているのか?” を考えてみたところ、意外にも “私自身だったのかもしれない” と思いました。1年半前、あの3人から助けを求められた時、助けに行けず、逃げてしまった自分自身の “心の弱さ” そして “勇気の無さ” を、私自身の良心が責め続けていたのだと気付きました。

今回の出来事を通して、人は自分の為だけに生きていると、一番強く残る後味は “辛さ” だと身に染みました。だからもし、誰かの助けになるならば、自分の身が傷付いても行動したい。それが、生き残らせてもらった私にできることであり、良心が望んでいることでもあると思います。

トップランナーに見る可能性

東日本大震災の被災地の中で  “復興のトップランナー” と言われている地域が宮城県女川町です。復興の様子を、現地の人たちから聞きました。

2011年5月17日 女川町の様子

女川町は震災当時、約15mの津波に襲われました。建物は全体の9割以上が被災し、7割以上が全壊しました。人口は震災前と比べて3割以上減り、1割は犠牲になりました。          「東日本大震災の被災地の中で、建物の被災率・人口の減少率が最も高かったのが、この町でした。」

震災1カ月後、町の有力者たちが集会を持ち復興計画を練った際、責任者世代から提案がありました。            「私も含めた60代以上はサポート役にまわって、復興のやり方に口を出さないようにしよう。20~30年後に生きているか分からない我々は、口を出してもたかが知れている。最後まで責任を持てない。我々は “弾よけ” になって、若い世代に任せよう。」  「その後、町民約50名で設立した復興連絡協議会は、後々『民意の象徴』と呼ばれるようになり、復興の起点となりました。」

20代~70代まで幅広い世代の人、様々な業種の人が復興を始めた当初から携わり、行政と民間も協力しました。       「話し合いの場を持つと、年配者だけでなく若者も反論してくれるので、様々な意見が出て活気ある場になります。」    「民間の手が届かないところは行政が支援し、行政の手が届かないところは民間が行う形で一丸となって取り組みました。」

やがて、復興を担う若い世代は責任世代と呼ばれるようになり、“100年先の子供たちが誇れる町” を目指しました。   「被災自治体は巨大防潮堤を建設する地域が多い中、女川町は防潮堤を作らず、海と共に生きる方向性で復興計画を進めました。これは、他地域と比べて独自の道を進んでいるようにも見えましたが、やがて評価されるようになりました。」       「意思決定が早く、復興のスピードが速いということで  “復興のトップランナー” と呼ばれるようになりました。」

2015年6月14日 JR女川駅

「町づくりを象徴する場所」と言われる場所が、女川駅を中心とした駅前の商業エリアです。                震災4年後、女川駅が再建されて記念式典が開催されました。震災後に一部区間が不通となっていたJR石巻線(女川駅が終点)も、全線で運転を再開しました。                震災9年後、女川駅前の商業エリアが国土交通省の重点「道の駅」に選ばれました。県内では、大崎市に次いで2ヵ所目の選定です。

ある情報番組で被災各地の住民数千人にアンケート調査を行った際、「復興は進んでいると思いますか?」という質問に対して「進んでいると思う」と答える人の割合が高かった地域の一つ、それが女川町でした。

2019年8月30日 女川町の様子

漁師さん「被災した他の町よりも、復旧は進んでいる方じゃないかな。あれだけやられたにしては、頑張ってると思うよ」  

レストランの店主「新しい食を通して人々の集う場を作ることで、復興に役立てたいです」

町長さん「この町には、大きな可能性を感じています。NPO等による創業プログラムがたくさん生まれたし、会社の研修で訪れてくる人も多く、海外から学びにくる行政区長もいます。…(中略)… 人口減少率が全国で最も高いこの町は、他地域が同じように抱えるであろう課題を先取りした課題先進地です。しかし、裏を返せば  “可能性先進地” でもあるので、多くの可能性を示したいです」

復興のトップランナーと呼ばれる女川町は、様々な可能性を感じさせてくれる場所です。

家族の定義

東日本大震災で被災した人から話を聞きました。夫婦二人暮らしで、地震の時は奥さんが自宅にいて、旦那さんが仕事の関係で隣町にいたようです。

あの日、私は隣町で地震に遭遇しました。ものすごい揺れで 、ただ事ではないと思い、すぐ車で自宅に向かいましたが大渋滞で進まず。すると、海の方から来る津波が見えて、逃げ切れないと思い、とっさに車を捨てて近くの松の木に登りました。

津波が来ました。車はどこかに流され、あっという間に町一面が海になり、私は松の木の上から身動きが取れなくなりました。周りを見ると、津波で建物が流されたり、漁港の船が市街地へ流れて来たり、油に引火して工場が火事になったり、ガスのタンクが引火して打ち上げ花火のような音がしたり、空からは雪が降って一面白くなったり…  あの光景を一言で言うなら “地獄” でした。

私は結局、松の木の上で一晩を過ごしました。いつ死んでもおかしくない状況だったので、いろんなことを考えました。“もう人生終わったな”  とか、妻に対して  “今までありがとう、お前は生きろよ” とか、遺書を書くような、祈るような感覚でした。“死ぬ間際には人生が走馬灯のように蘇る” とか言うじゃないですか、まさにそれです。

翌朝、水位がある程度下がったので、水の中を歩いて自宅へ向かいました。途中、前日の火災の影響か、灼熱の熱風に襲われて火傷しそうでした。上半身は燃えるように熱いのに、下半身は雪混じりの水に浸かりながら凍るように寒く、拷問のようでした。

やっとの思いで自宅へ到着しましたが、津波で全部流さて跡形も無く、妻の姿も見当たりませんでした。その後は必死に妻を探し回った末、奇跡的に再開できたんです。           津波の時自宅にいた妻は、波の力でどんどん家が壊されていく中、頭の中で “もうダメかもしれない” と何回もよぎりましたが、運良く救助されて助かったようです。            私は、あまりにも嬉しくて「生きてたんだ!」と何回も言ってしまいました。 “生きていてくれて、ありがとう” という想いが、心の底から湧いてきたんです。普段の平凡な日常生活の中では感じられない、不思議な感覚でした。

 

震災の一見を通して、私は学んだことがあります。     「“家族”という言葉の定義って何だろう?」と考えてみた時、 「“いてくれるだけで、ありがとう”と自然に思える人」のことを “家族” と呼ぶのだと感じました。震災後は、私自身も夫婦間のちょっとしたもめ事が、だいぶ少なくなりました。血の繋がりにこだわらず、家族だと思える人が増えた分、その人はおそらく、幸せになれるのだと思います。

自衛隊より早かった救助 [後編]

東日本大震災当時、宮城県南三陸町の入谷地区(海から約5km内陸の山間部の地域)で消防団員だった人から話を聞きました。

ーーーーーーー〔後半〕ーーーーーーー

志津川病院へ救助に向かった消防団員6名は、多くの土砂やがれきに行く手を阻まれたため、平常時と比べて3~4倍の移動時間がかかってしまいましたが、ようやく病院へ到着しました。

5階建ての病院で、避難者たちは最上階の会議室に身を寄せていました。我々が到着すると、職員から「ここでは230人が孤立しています」と説明を受けました。入院していた私の知人は「まさか、自衛隊より早く助けに来てくれるとは思わなかったよ…これで家に帰れる!」と安どの表情を浮かべました。同じ消防団員も、自身の親戚の看護師の無事を確認して、涙を浮かべました。院内の様子を聞くと、電気・ガス・水道・ネット回線等が全て止まったため、昨夜は雪が降って寒くても暖房器具を一切使えず、手ぬぐいや病室のカーテンを体に巻いて寒さに耐えていました。食事も、1人あたり柿の種1粒と氷1片ずつが配られただけでした。

状況確認が終わると、すぐに避難経路の確保を始めました。1人が屋上から海を監視し、残りの5人ががれきを片付け、病院を出てから近くの高台へ移動するまでの安全な避難経路を作りました。病院近くの川の水位が落ち着いたのを確認して “今しかない” と思い、自力で歩ける避難者120人を連れて、高台へ避難誘導しました。その後、自衛隊のヘリも屋上に到着して、残された避難者を搬送し、全員が無事救助されました。

後日、あの日の我々の行動を振り返ると、同じ団員の身の安全を考えたら、本当に良かったか疑問に思う時もありました。でも、あの時助けに行けたのは、我々しかいなかったのも確かです。

 

この経験があったからか、最近は他県で開催される社協のイベントなどに呼ばれて講演することもあります。すると、講演会の参加者からは「教訓は何かありますか?」と、よく聞かれます。 そんな時は「有事に備えて水の確保、食料の備蓄、トイレをどうするか…」など、“物” の必要性を話しつつも、それだけでは十分ではないと伝えます。「重要なことは、それらの “物” をご近所同士で共有し、互いに足りない物を分け合うこと。この助け合いこそが、“地域コミュニティ” なんです」と強調します。

震災当時、自衛隊よりも早く救助活動を開始できたのは、地震が収まった直後からご近所同士で助け合えたからなんです。近くの避難場所では、お米や鍋、おかず…など、必要そうな物を各自が持参して、独自の “炊き出し” を始めたので、食べ物にはあまり困らなかったんです。こうした連携が自然と生まれる地域だったので、救助に向かう際は70人も集まったんです。

今回の災害は、この “地域コミュニティ” の大切さ、その在り方を再確認するために起きたのだと思わざるを得ないんです。

自衛隊より早かった救助 [前編]

東日本大震災当時、宮城県南三陸町の入谷地区(海から約5km内陸の山間部の地域)で消防団員だった人から話を聞きました。

ーーーーーーー〔前半〕ーーーーーーー

あの日、ここ(入谷地区)は海から離れてたから津波は来なかったですが、地震の揺れはすごかったです。揺れが収まると、近隣住民がすぐ集会所に集まって情報収集しました。すると“町の中心部は10m以上の津波に襲われた” とか “警察や消防、役場も含めて機能していない” という情報が入る中、ラジオで流れた「志津川病院(海近くの病院)で200人以上が孤立…」というフレーズが気になりました。この状況下で助けに行けるのは、うちら(津波被害が出てない地域の消防団)しかいないと思ったからです。

震災翌日の朝、私も含めて消防団員が数十名集い、市街地で孤立した人たちの救助に向かいました。ある程度歩くと津波が到達したエリアに入り、路面には土砂やがれきが散在しました。津波は、海から約3km程内陸まで届いていました。

震度45の余震も頻繁に起きました。「今の余震で、また津波が来るぞ!」「高い所へ上がれ!」といった仲間の声にも動揺しました。一晩経って水自体はある程度引いてましたが、海へ近付くにつれて、大木や車、家財道具、家の屋根などのあらゆる物が道路にあふれ、津波の爪痕が色濃くなってきました。市街地へ向かう道路は国道が2本ありましたが、片方は途中の橋が崩落して使えなかったので、もう片方の国道398号線、これが生命線だと思いました。 

 

市街地に到着すると、消防団員を3つ(中学校行き、高校行き、病院行き)に分けて、私を含めた6名は病院へ救助に向かいました。

しばらく進むと病院が見えてきました。しかし、この辺りまで行くとがれきの量も多く、人の背丈よりも高く積まれていたため、視界を邪魔して海の様子が一切見えませんでした。私は、一瞬迷いました「これ以上先へ進んだら逃げ場が無くなる。余震と共に津波に襲われたら我々全員、命は無い進むか?戻るか?」と。しかし、共にいた消防団員が『自分の親戚にあの病院の看護師がいて、地震以降は連絡は取れておらず、どうしても無事を確認したいと話していたのを思い出し、「ただでは帰れない。行くぞ!」と声をかけて、病院へ急ぎました。

道中、がれきの中から遺体を発見することもありました。一緒に連れて行きたかったですが、あの状況下ではどうすることもできず… 毛布をかけて、手を合わせることしかできなかった自分が悔しかったです。

平常時と比べると3~4倍の時間がかかりましたが、ようやく病院に到着しました。

ーーーーーーー〔後半へ続く〕ーーーーーーー