今だからこそ言える冗談

東日本大震災の発災当時、中学2年生だった女性の話です。

私はあの日、学校で上級生の卒業式の準備をしている時に地震が起きました。学校自体は高台に位置して安全だったので、生徒たちは体育館に身を寄せました。先生たちが窓のカーテンを閉めて、生徒たちに津波が見えないよう配慮してくれました。そのため、体育館の中ではいつもと変わらず、いたって普通の時が流れていました。唯一違う点は、町内放送で避難を呼びかけるアナウンスが繰り返し流れていたことです。しかしその音声も、やがて「プツッ!」っと途切れました。近隣住民も避難する中、生徒たちは体育館で一夜を過ごしました。

翌朝、学校の校庭に出て街を見下ろすと、あまりにも変わり果てた光景でした。最初は、現実を見るよりドラマを見ている感覚に近くて、自分の目で見ているのに全く実感がわかなかったです。

お店周辺の様子(2011年6月6日)

母の経営するお店が沿岸地域にあったのですが、その様子を見に行った時に、初めて津波が来たことを実感しました。店は丸ごと全部流されてしまい、何も残ってませんでした。店の敷地内に残されたガレキを見ましたが、他の場所から流されてきた物ばかりで、この店の物は何も見つかりませんでした。

自宅へ帰ると、高台の上に建っていたので無事でした。その後、自宅で母や妹と生活しましたが、1週間が経過しても、依然父だけが行方不明でした。父は、山を越えた隣町の海近くにある鉄工所で働いていました。この町は、10m以上の津波が到達したことで引き波の力も強く、沖へ流されて行方不明になった人が多かったです。そのため、家族で相談した結果、父のお葬式をあげることにしました。

父のお葬式の準備を進めていたある日、家の玄関が「ガチャ!」と開いたと思ったら、突然父がひょっこり帰って来ました。  あまりにも突然過ぎたので「おかえりなさい」ではなく「どうして帰って来たの?」と言ってしまいました。家族みんなが驚き過ぎて 、“良かった” ではなく “どうして今更?” という思いでした。その後、父といろいろ話しているうちに緊張の糸がほぐれて、母は泣き崩れちゃいました。あの時は最初 “驚き” があまりにも強過ぎて、“嬉しい” という感覚はほとんど無かったです。

お店周辺の様子(2018年11月1日)

今(2018年11月)では、父との間でもめ事があると、私が冗談で「あの時に津波で流されちゃえば良かったのにね」と言ったりします。すると母も「そうよ!そうよ!」と言います。

何事も無くこの冗談を言い合っていたら、かなりブラックな家族だと思われます。でも私からすると、あの時の辛さを共に乗り越えていく中で深まった家族の絆 があるからこそ、笑って言い合える冗談かなと思います。

写真が宝物に変わる日

東日本大震災で被災した女性が教えてくれた教訓です。

発災当時、この町は10m以上の津波に襲われて、私の自宅を含めた沿岸部の住宅街は丸ごと流されてしまい、一面がガレキの町と化しました。町全体が、あまりにも変わり果てた光景になったので、最初は私も途方に暮れました。             でも、時間の経過とともにガレキが片付き、お店が再開し、災害公営住宅ができ、町を歩くと住民の笑い声が聞こえるようになりました。「やっと、落ち着いた生活ができそうだな~」と思えるようになってきた頃の出来事です。

 

ある日、自宅にいた私は「家の中が殺風景だから、写真でも飾りたいな~」と思いました。しかし、震災前の家は流されてしまったため、写真やアルバムなどを含む過去の記録が、一切残っていませんでした。唯一、スマートフォンには震災前の写真データが残っていたので、家に飾れそうなものを探しました。

しかし、いざ探してみると、飾れそうな写真が全然見つかりません。データ自体はしっかり残っていたのですが、風景写真や料理の写真、加工した自撮り写真など、SNSを意識して “インスタ映え” や “かわいさ” を狙った写真ばかり。しかも、そのほとんどは最近の写真。データ容量を食う関係で、半年以上前の写真は削除済み。結局、プリントアウトして家に飾りたいと思えるような写真は一枚も見つかりませんでした。

あの時は相当悔しかったし、ショックでした。私は元々、写真を撮るのがすごく好きで、家族の中でも撮影担当でした。友人たちと比べても、撮っている写真の枚数は多かった方だと思います。でも、一番肝心な “家族” “思い出” の写真を全然撮っていなかったことに気付いたんです。

 

最近、私は周囲の人によく「写真はいっぱい撮ってくださいね」と話しています。でも、それに加えて「普段の何気ない家族の日常が分かる写真も忘れずに!」と話します。例えば、外へ出かけた時に撮ったり、家族の誕生日に撮ったり、子供の行事で撮ったり、年末年始で親戚が集った時に撮ったり…ちょっとした時に写真を撮り、それを大切にして欲しいです。

それらの写真は、今すぐには価値を感じないかもしれません。 でも、数年後か数十年後に「気付いたら宝物に変わってた!」 と思える日が、絶対に来ると思います。

 

災害がもたらした “良いもの”

東日本大震災の被災地で語り部をしている人から聞いた話です。

〔典型的な東北気質〕

沿岸部に位置するこの町は「生まれてから引越しをした経験が無い」という人が多いです。つまり、生まれてから死ぬまで、ずっとここで住み続ける人の割合が多い町なんです。就職のタイミングで他地域へ引っ越したり、逆に他地域からこの町へ引っ越して移り住むような人は少ないです。

町民の人柄としては、辛い出来事があっても我慢強く、忍耐強く、他人の力は借りず、周囲に迷惑はかけず、自分たちの力で乗り越えようとする典型的な東北気質の人が多いです。実際、他地域の人からも「町民間の絆が強いですね」と、よく言われます。誰かが困っていると住民間で助け合う文化があります。でも、裏を返せば不器用なんです。人見知りで、あまり面識のない人と接する時は、自然と不愛想になってしまう人が多いんです。

〔東日本大震災発生〕

2011年3月11日、東日本大震災によって、この町の中心部には10m以上の津波が襲いかかり、町は一瞬で壊滅しました。

私も含めて生き残った人たちは避難所へ駆け込んで何日も過ごしました。しかし、食べ物や飲み物は無く、スマートフォンは全て圏外でした。屋外では雪が降る中、濡れても着替える服が無かったので、震えながら過ごしました。夜に寝る時も、毛布などの寝具が一切無かったので、窓のカーテンを外して体調を崩している人や子供たちへ優先的にかけました。当然、プライバシーは一切無く、生活の全てが周囲の人たちから丸見えでした。

さすがにこの時は、町民間の助け合いだけで乗り越えるのは難しいと誰もが感じていました。私の周囲でも「人生、もうダメだね…」「これから一体、どうしたらいいんだろう…」と、途方に暮れる人が多かったです。

〔駆けつけてくれた人たち〕

そんな時、壊滅したこの町へ助けに来てくれたのが、自衛隊やボランティアを始めとした町外の、全国各地の人たちでした。様々な生活物資を支給してくれたり、家の中の泥出しを手伝ってくれたり、炊き出しで暖かい手料理を配布してくれたり…。私が印象的だったのは、自衛隊から提供された入浴サービスで、皆は “自衛隊風呂” と呼んでいました。この時、私を含めた避難者の多くは、震災から数カ月ぶりに風呂に入ったので、言葉では表現しきれない不思議な感動がありました。身も心も温まって、それまでピリピリと張りつめていた緊張の糸がほぐれたような感じでした。

これらの支援が本当に嬉しくて助かったんですけど、それと同時に、町民たちはすごく驚きました。今まで町外の人たちに対して閉鎖的で、関わり合いが少なかった分、いざという時に、こんなにも多くの人たちが助けに来てくれるなんて、思ってもいなかったからです。また、ボランティアの人と話してみると、ほとんどがこの町へ初めて来た人、言葉を換えれば、縁もゆかりも無い赤の他人だったことで町民たちは更に驚きました。「あの若い人たちは、学校や仕事を休んでまで支援に来てくれたのか?」「縁もゆかりも無いこの町のために、自腹でお金を出してまで、どうして助けてくれるのか?」と話す町民が多かったです。

〔町の変化〕

それから数年かけて、町の雰囲気はガラリと変化しました。

その変化が分かりやすく表れているのが、「町を挙げて移住者を歓迎するようになった」という点です。移住者に対しては、住居探しや仕事のあっせん、町民間のコミュニティ作り、町からの経済的支援など、町や住民が様々な面でサポートしてくれます。そのおかげで、縁もゆかりも無い人でも、この町へ移住して来やすい環境になり、20代~30代の若い人の移住者も少しづつ増えてきました。

移住者に話を聞くと「赤の他人の自分にも親しく接してくれて嬉しかったのが、移住を考え始めたきっかけです」「都会にはない魅力が、この町にはありました」「自宅と職場を往復する一人の生活よりも、山と海に囲まれて皆で生活する方が生き甲斐を感じる」という声を、よく耳にします。

これは、震災前と比較すると、考えられない光景です。ここまで町全体が変わることができた理由は、町民一人ひとりの意識が変化したからだと思います。

震災当時の「赤の他人から何回も助けられた」という経験を通して、町民の人付き合いが大きく変わりました。町内の人(気心の知れてる人)に対してだけ優しく接するのではなく、町外から来た人(赤の他人)に対しても優しく、親しく、壁無く接する人がすごく増えたのです。そして、何を隠そう、私自身もその一人なんです。

震災は、この町に多くの悲しみをもたらしましたが、良い意味でもたらしたものを挙げるとすれば、それは「意識改革」だったと私は感じています。

知識と行動の差

宮城県内の沿岸地域に住んでいるお母さんから聞いた、震災で学んだお話を紹介します。

〔震災前の生活〕

私の自宅は漁港の隣にあって、自宅を出て30歩で海という立地でした。趣味を聞かれると「家族で釣りをすることです」と、よく答えていました。

沿岸部の漁港 (震災前の自宅隣の場所)

その一方、この街は約60年前、最大5mのチリ地震津波が到達した場所でもあります。そのため、防災訓練は頻繁に実施してましたし、街の沿岸部全体には高さ5mの防潮堤も建設されました。他地域と比べても、防災意識の高い人は多かったと思います。

〔震災当時の動き〕

3月11日、私は職場近くの山の上で震災を経験しました。大きな揺れに驚きました。揺れが収まった直後、私は「津波が来るかもしれない」と直感しました。そこで、(海近くに位置する) 職場に誰か残っているかもと心配になり、職場へ戻りました。すると職員1人が残っていたので、逃げるように伝えました。

次は、自宅に誰か帰っているかもと心配になり、自宅へ車を走らせました。すると大渋滞に巻き込まれて、(普通なら5分で帰れる道中なのに) 20分以上かかりました。自宅へ到着すると、私と同様に自宅を心配して戻った主人がいたので、逃げるように声をかけました。最終的には皆が各自の車に乗り、3人が車3台で並んで逃げました。

道路は依然として大渋滞でしたが、無理やり割り込んで入れてもらい、何とか津波が来る前に高台へ避難できました。

津波が去った後日に自宅へ戻ってみると、跡形もありませんでした。結果的にこの街を襲った津波は約15mでした。沿岸部にあった5mの堤防は、全く意味を成しませんでした。

〔震災後の気付き〕

それから月日が流れるに従い、街の復興工事は少しづつ進み、現在は落ち着きを取り戻しています。

現在の街の様子 (15mの津波に襲われた地域)

そんなある日、震災当日の私自身の行動を振り返ってみました。すると、その行動は間違いだらけだったと気付いたんです。

間違い1:揺れた時は高台にいたのに、揺れが収まったら高台の下にある職場へ戻ったこと。                間違い2:職場よりも更に海近にある自宅へ戻ったこと。   間違い3:大渋滞の中を3人が各自の車に乗って避難したこと。

今回は運良く逃げ切れましたが、津波の到達時間がもう少し早ければ、私を含めた3人はこの世にいなかったです。

先程も言いましたが、この街は以前から防災教育に力を入れていたため、私自身も町の防災訓練に毎年参加してました。地震発生時にとるべき行動は、他の人に教えられるくらい頭に入っていました。しかし、自分自身がいざ、大地震に襲われてみると、その知識を全く生かせませんでした。むしろ、防災訓練から得た知識とは真逆の行動をとっていたんです。私は毎年防災訓練に参加し、それなりに知識もあったので「自分は大丈夫だ」と、心のどこかで思っていたんです。

〔震災から学んだこと〕

私には、震災から学んだ教訓があるんです。         それは「知ってることと動けることは違う」です。正しい知識があっても、正しい行動をおこせるとは限らないと痛感しました。自然災害に対しては、例えどんなに豊富な知識を持っていても、「私は大丈夫だ」という 傲慢な姿勢 にならず、謙虚な姿勢 で対することが大切だと思いました。

街を活気付ける ”鍵” とは?

2018年11月、被災地沿岸部の街で復興関連の仕事をしている人から聞いた話を紹介します。


震災当時、この街には約15mの津波が押し寄せて街の中心部を飲み込みました。あれから7年半、津波が到達した沿岸部では街の再開発が進みました。沿岸部では堤防が作られ、自宅を無くした人たちは高台へ集団移転し、公園や商店街も作られて新しい街に変わりつつあります。しかし一歩街の中に入ると、震災前と比べて人口が減り、若者の割合も減ったのが相まって活気がなくなり、住民の中でも「隣近所に住んでるのは誰だっけ?」と言う人が増えています。

この状況を見た他地域の人からは、こんな話をよく耳にします。「街並みはきれいですが、ちょっと静かで寂しい感じがします。地域コミュニティを作って、街を活気付けたらどうでしょう?」しかし、これが簡単ではありません。今回自宅を無くした人たちは既に、以下の状況でコミュニティが壊れた経験をしています…

●1回目                          今まで生活してきた自宅を失い、避難所へ移動したとき    (避難所:小学校の体育館や公民館などで雑魚寝する集会所 ) ●2回目                          半年間生活した避難所を出て、仮設住宅へ移動したとき    (仮設住宅:新たな家が見つかるまでの期間に生活する家)  ●3回目                          5~6年生活した仮設住宅を出て、災害公営住宅へ移動したとき (災害公営住宅:家を無くした被災者向けに建設された家)

復興関連の業種の人たちの間では、こんな表現を耳にします「自然災害で被災すると、コミュニティは3回壊れる。」    被災者は、避難所の生活(半年間) や仮設住宅の生活(5~6年) である程度のコミュニティが形成されたうえで別の場所へ引っ越すことになります。そのため、災害公営住宅へ引っ越して生活が安定する頃には、地域コミュニティを一から作ることに疲れてしまい、ご近所付き合いが疎遠になってしまう人が多いです。

現在、自治会を立ち上げてコミュニティ作りを始めようとしています。今後、この街が活気を取り戻すために重要なことは、堤防を作ったり、新しい建物を建てたり、オシャレな街並みを作ること以上に「❝もっと良い街にしたい❞ と思える人を何人作れるか」だと思います。

海の近くに住むより危険なこと

被災した人たちが教えてくれた教訓を紹介します。東日本大震災の被災地では、こういった地域がありました。

高い津波(10m~15m)に襲われたにも関わらず、目の前に海が見える沿岸部より、そこから少し離れた内陸部の方が犠牲者の割合が高かった。

これは、なぜでしょうか?

〔理由〕

沿岸地域の住民は元々、水害に対する危機意識が高かったからです。

実際に沿岸部の住民に聞くと、過去のチリ地震津波(1960年)の話をする人が多いです。更に、ご年配の人であれば昭和三陸地震津波(1933年)の話をする人もいます。この地域で生活すると、家族や学校の先生から津波の話を耳にすることが多いです。その結果、津波を経験していない若い世代も、その多くが水害に対する危機意識を持っていました。

一方、海が見えない内陸部の住民は、その反対でした。話を聞くと、過去の津波が来なかったので、今回(東日本大震災)もきっと大丈夫だろうと思う人が多かったようです。その結果、若い世代の危機意識も、沿岸部と比べて低かったようです。

〔結論〕

津波のことを考えると、❝海の近くに住むこと❞ は危険が多いです。しかし、それ以上に危険なのは  ❝防災意識が低いこと❞  だと分かりました。

 

あなたも里親になりませんか?

あなたは「おのくん」をご存知でしょうか?

 

〔おのくんとは〕                     おのくんというのは、猿をモチーフにしたキャラクターの縫いぐるみです。正式名称は「めんどくしぇ おのくん」と言い、苗字が「めんどくしぇ」で名前が「おのくん」です。みんなからは「おのくん」と呼ばれています。                2012年4月20日、東日本大震災で被災した宮城県東松島市内の仮設住宅で誕生しました。                  主な「エサ(材料)」は、新品の靴下(大人用でも子供用でもOKです)と綿(ダイソーの手芸綿が合うようです)です。靴下を切り抜いてミシンで縫った後、綿を詰めて手縫いで仕上げるため、一つを完成させるのに2~3時間かかります。靴下で作られているので、ソックスモンキーとも呼ばれています。

〔世界に一つだけのおのくん〕               おのくんは、使用する靴下によってさまざまな色や柄に仕上がります。大きさも、長さ10cmのミニサイズから30cmのビッグサイズまであり、どれも世界に一つだけしか存在しません。例えば、受験シーズンであれば、ゴム状の “滑り止め” が付いたついた靴下を使う「滑らないおのくん」が人気のようです。

〔誰でも里親になれる〕                  現在、東松島市内のJR陸前小野駅前にある「空の駅」が、おのくん作りの拠点となっている交流施設です。          おのくんを展示・販売している場所は「おのくんハウス」と呼ばれ、色や大きさに関係なく、一つ1000円で購入できます。購入者は「里親」と言い、購入したおのくんをおのくんハウスへ連れて行くことを「里帰り」と言います。国内外の里親の数は、延べ10万人以上になり、今は関連グッズや絵本などもあります。里親同士の交流も自然に生まれ、全国に里親会も作られました。里親会の集まりには、おのくんと一緒に参加することで新たなコミュニティも構築されています。

おのくんを作っている人の中には「震災に遭って大変な思いをしたけれど、おのくんに出会えて心のゆとりができた」と話す人もいます。                        「多くの人に東松島を訪ねてほしい」という地域住民の思いから、通信販売より対面販売を優先しています。

あなたも、宮城県東松島市を訪れて、おのくんの里親になってみてはいかがでしょうか?

 

おのくんについて                    〇HP:http://socialimagine.wixsite.com/onokun        〇Twitter:https://twitter.com/onokun1           〇Facebook:https://www.facebook.com/onokunpages

復興とは誇りを持つこと

宮城県内の被災した人たちから聞いた話を紹介します。

この町では、震災後に生ごみの分別基準が厳しくなりました。 例えば…

【生ごみの分別基準】                   砂糖は生ごみだけど、は可燃ゴミで捨てる。       〇味噌汁の具は生ごみだけど、味噌は可燃ゴミで捨てる。   〇 果物の皮は生ごみだけど、は可燃ゴミで捨てる。     〇 バターは生ごみだけど、牛乳は可燃ゴミで捨てる。     〇 卵の中身は生ごみだけど、は可燃ごみで捨てる。…etc

これだけ聞くと めんどくさいな と思っちゃいます。でも、こうなった理由が分かると、誇らしいな と思えるようになるんです…

震災から3カ月後 (2011年6月)の町内沿岸地域

この町は震災直後、電気やガス、石油などが入手できなくて困る人が多かったです。そこで、復興計画を作る際は「生活インフラは地域内でまかなえる町を目指そう!」となり、そのために注目されたのが、今まで埋め立て処理していた生ごみでした。

震災から6年半後 (2017年9月)の町内沿岸地域

2015年に生ごみのリサイクル施設が完成したことで、生ごみから資源 (電気と液体肥料) を作れるようになりました。その能力は…

【処理能力】1日の生ごみ処理量:10.5トン         【発電能力】1年間の発電量:一般家庭 60世帯分      【肥料生産能力】1年間の生産量:1000㎡の田んぼ 700枚分

ただ、住民にとっては生ごみ分別が今までより厳しくなるため、分別に関する説明会は町内全域で60回以上も開催されました。 住民の努力もあって、今 (2017年)では、生ごみ分別率が90%を超えてるようです。将来的には「町の丸ごとブランド化」を目指しているようです。                     こういった経緯を知ると、ゴミの分別が厳しくなっても めんどくさい 以上に 誇らしい と思えるようになります。

おそらく、住民みんなが ❝誇らしい❞ と思えた時、この町の復興がまた一歩前進するのだと思います。

 

関東・東北豪雨から2年

2015年の関東・東北豪雨では、茨城県常総市内を流れる鬼怒川の堤防が決壊したことで、市内の約1/3(40㎢)が浸水被害を受けて、住宅5000棟以上が全半壊しました。発災から2年後、堤防の決壊場所近くに石碑が設置されました。

1.発災当日(2015年9月10日)

鬼怒川の堤防が決壊しました。               ○決壊場所:常総市三坂町                 ○水位:観測史上最高水位である8.06mを記録しました。   ○決壊幅:約200mにわたって川が決壊しました。       ○道路寸断:決壊場所の隣を通る県道が約57m寸断されました。


2.堤防決壊付近の様子の変化

 

    発災1カ月後 ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 発災1年半後

 

    発災1カ月後 ⇒⇒⇒⇒⇒⇒⇒ 発災1年半後


3.発災から2年後(2017年9月10日)

写真:毎日新聞 2017年9月12日「常総水害2年 記念碑設置し黙とうささげ 安心、安全な地域づくり誓うより引用

鬼怒川の堤防上で、決壊した現場を見渡せる場所に石碑が設置されて、除幕式が行われました。市長は「誰でも立ち寄れるようにして、水害を伝えていきたい」と話し、堤防上をサイクリングロードに整備する予定です。水害の教訓を忘れないように設置された石碑には、表面に「決壊の跡」と刻まれ、裏面には災害当時の天候や被害状況が記されています。             堤防整備は、茨城県内の鬼怒川流域44.3キロ区間で進めていて、全工事完了は2020年度中を予定しています。

神様を意識して何が変わったのか?

 UPeaceの東北ボランティア参加者の声を紹介します。

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今回、石巻市でボランティア活動に参加しました。
主な活動内容は、イベント会場周辺の掃除や設営準備でした。国籍をこえて老若男女、様々な人たちと一緒に活動しました。
私の主な担当は、イベント会場周辺の掃除でした。活動を始めてしばらくたつと、他のみんなが綺麗に掃除を進めている中、私の担当場所は掃除後も汚れが残っていました。というのも、元々私は掃除が苦手で、自分なりに頑張りはするのですが手際が悪かったです。
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しかし、ボランティアでこの姿勢はよくないと思ったので、発想を変えて 「神様だったら、どういうふうに掃除するだろうか?」 と考えて掃除をしました。すると、細かい箇所の汚れまで気付くようになったり、より丁寧に掃除することができるようになりました。
その結果、私が担当した掃除場所はとても綺麗に仕上がりました。その光景を見ながら 「自分でも、こんなにきれいに掃除することができるんだ」 と思い、自分自身で驚きました。おそらく、掃除好きの人からすると普通の仕上がりに見えると思いますが、苦手意識が強かった自分にとっては驚きでした。掃除に対して  “やりがい” を感じたり、掃除することが “楽しい” と思えるようになりました。
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今回の活動から学んだことは二つあります。
一つ目は、苦手を克服できたことです。今まで掃除が苦手だった私ですが、好きだと思えるようになりました。
二つ目は、考え方が変化したことです。自分の目線以上に、神様の目線で物事を考えることが大切だと思いました。

感想は以上です。
このメンバーが笑顔で掃除する光景が、とても印象的でした。