終わっていない3.11

 1月の中旬に、引っ越し作業を手伝いました。当初は丸一日かかるだろうと思っていた作業が、大人数で作業したので半日で終わりました。
「早く済んで良かった〜」と依頼者さん。
 早めに終わったので、ちょっと休憩してから帰ることになり、依頼者さんのお二人が震災当時のことを話して下さいました。
「いや〜、あの時はびっくりしたわよ〜。」

「すぐに逃げたから大丈夫だったんだけどね。でもまさか、あんなことが起こるなんて思わなかったわね〜。」

「私たちはまだ良かった方よ。皆無事だったからね〜…。」

 

震災当時の話を何回か聞いたことがある私にとって、この時の話題は、さほど珍しいものではありませんでした。ですが、私はこの依頼者さん2人の会話を通して、とても驚いたのです。

 なぜなら、話をされる依頼者さんの表情や動作、雰囲気、語る姿に触れた時、震災を体験していない私が、今から5分前に震災が起きたように感じたからです。依頼者さんの姿を通して、津波が来た時の迫力、緊迫さ、臨場感、取った行動までもが、鮮明に伝わって来たのです。まるで、怖くて迫力のある映画を見終わったその瞬間にも近い感覚を覚えました。

 

 そこで気付いたことがあります。

被災者にとって3.11は、“10ヶ月前”に起きたことではなく、“5分前”に起きたことだったのです。

3.11の被害を直接受けなかった私にとっては、時間が経てばたつ程、3.11が“過去”の出来事になっていました。しかし被災者にとっては、3.11からどんなに時間が経っても、3.11は“今”の出来事のままでした

 被災者にとって3.11は、今でも現在進行形です。
 私は、そのことを忘れてはいけないなと感じました。

進めたくても進まない作業

 あるボランティアリーダーから聞いた話です。倒れた塀一つを撤去するだけでも、もめ事が起きることがあるという話でした。
 お墓と民家の間の塀が倒れており、お墓の側に倒れ込んでいました。お墓に来るかたたちからは、「危険だから早く撤去してほしい」という声が出ています。
 しかし一方で、“ちょっと待て!”というかたもいます。

よく見ると、倒れた塀は民家の敷地内にまたがって倒れているため、撤去する為には民家の敷地内に入らなければいけません。しかし、この民家の主人は行方不明になっていました。

 許可無しに勝手に敷地内に入って、こちらの善意で勝手なことをして、後で問題になったらどうするのか?誰が責任を持つのか?
 その地域の為には、早く撤去した方がいい。それは誰もが承知していました。しかし、物事の捉え方や見る角度によって意見が食い違ってしまいます。それによって、ちょっとした作業なのに手がつけられない。
 作業を進めたくてもなかなか進めることができない背景には、こういった難しさがあるようです。

天井にペンキを塗る理由

 最近は、何日間かかけて集会所の内装のペンキ塗りをしています。壁から天井まで、きれいにペンキを塗ります。塗った後は、再び集会所として地域住民の集まる場所にしようとしています。

 この集会所は、津波の被害を受けました。その後、ボランティアさんたちが入ってがれきを撤去し、壊れた窓を補強し、掃除をして、鍵を付けました。ここまでやれば、集会所として使える状況になったように見えます。

 では、この上で更に塗装までするのは何故か?

 あるボランティアチームから、こんな話を聞きました。

 

地域の集会所で、子どもたちと体操をしました。その時に、床に寝転んで天井を見た瞬間、集会所の天井に残っていた津波の汚泥の跡を見て、子どものひとりは気分が悪くなり、その後集会所の中に入れなくなってしまったそうです。

 

つまり、塗装作業は、この“汚泥の跡”を消す作業になっていました。

 

共に汗を流した元自衛官

 10月頃に、元自衛官の人と一緒に作業をしました。 その人は、2011年5月まで自衛隊にいたので、3.11の時はまだ自衛官だったそうです。

 

 震災後は、その人も被災地へ支援に行きたかったけど別の責任が与えられていたので、ずっと行けなかったそうです。なので、自衛官をやめたタイミングで被災地へボランティアをしに訪れていました。そして気付いたら、ボランティアを初めて5ヶ月がたっていたと話してくれました。

 

話を聞きながら、“3.11直後にすぐ被災地を助けに来れなかった”という悔しさが伝わって来ました。同時に、“もっと多くの困ってる人を助けたい!”という強い意志が伝わって来ました。すごい人だと思いました。私自身もこの人から刺激されて、もっと被災地の助けになりたいと思いました。

ニーズに合わせて活動は変化する

最近はよく、集会所のリフォーム支援をしています。

 その地域では、まだ住民が住んでいるにもかかわらず、津波によって地域の集会所がボロボロになって使えない状況です。なので、住民同士で触れ合える場所がなく、地域コミュニティが形成されていません。

 “コミュニティ形成の為、早急に集会所をリフォームすること”
 これが一つの課題になっています。

 

 ですが、市が責任を持ってリフォームするというのは難しい状況です。なぜなら、この集会所は海から近い場所にあるため、2〜3年後には取り壊しになる可能性があるからです。

 たとえ、市が大金をかけてこの集会所をリフォームしても、すぐに取り壊すことになってしまっては、それこそお金の無駄遣いになってしまいます。それは、地域のかたも理解されてました。

 しかし、この地域ではコミュニティ作りが必要な状況。のためにも、集会所がどうしても必要。しかし大金はかけられない。

 そこで、ボランティアさんたちで入ってリフォームをやろう!ということで、私たちも紹介され、素人ではありますが可能な範囲で、リフォームのお手伝いをしています。

 

 最近は、ボランティアといっても単純な泥出しだけではありません。その地域によってニーズも違うので、その地域に合った活動をすることが必要な段階に入ってきています。

カウンセラーより入れ歯

 3.11の震災後に、様々な人が支援に駆けつけました。
 そこで、カウンセラーのボランティアで来たかたがたは、被災者の心をケアしようと取り組んでいたけれど、当時はなかなか苦戦したという話を聞きました。

カウンセラーさんが心のケアに取り組んでも、なかなか進まないケースがあったようです。

 なぜか。被災者の悩みの種は、内面的なものだけではなく、具体的なものも多いということです。
 例えば、カウンセラーが被災者と話をして心のケアをされました。すると、イライラがとれて元気になられたようです。しかし、しばらくすると、またイライラして悩んでいたようです。
 よ〜く話を聞いてみると、そのかたは震災直後に入れ歯を無くしてしまい、食べ物を存分に噛むことができなくてイライラが募っていたようです。これでは、何回ケアをしても、その場で一時的に元気になるだけで、イライラする原因は解決できません。
 このイライラの原因を解決するのは、その人に合った入れ歯をはめてあげることです。
 今回の大震災の時は、元々自分が持っていたものが全て流されたかたが多いです。そのため、内面的な心の悩みも当然ありますが、具体的に物が無くなったから困っているという悩みも多かったようです。
 このように、相手の悩みを解決しようと思えば、相手は今何に悩んで、どうしたらその悩みが解決されるのか。解決策は気持ちを整理することなのか、それとも具体的な物が必要なのか。それをよく理解して、その相手に合った支援をしなければ、本当の意味で支援したことにはならないと言われます。

 

 

在宅被災者には援助がない

引っ越しの作業を手伝った時、そこの依頼者から聞いた話です。

自宅が被災して仮設住宅に住んでる人たちに対しては、市からの援助があります。それは、誰もが知ってる通りです。その一方で、自宅が被災したけれど、様々な理由から仮設住宅ではなく、家の二階などで生活してる人たちもいます。

いわゆる“在宅被災者”です。この在宅被災者に対しては、市からの援助が何も出ていません。これが“差別”ではないかということで、問題視しているんだという話でした。

 在宅被災者といっても、津波が全然来なかったから自宅で生活できているのではなく、1階部分が津波で完全にやられてしまったため、2階部分だけで生活している人が多いそうです。
 仮設住宅に暮らしてるかたと同様、被災者に変わりは無いんだと言う話でした。

とあるお母さんとの出会い

 6月に石巻の被害の大きかった地域へ視察に行った時、自転車に乗ってそこへ来たお母さんがいたので声をかけました。すると、そのお母さんは「ここが、私の息子夫婦が経営するお店だったのよ」と教えてくれました。よく見ると、そこは家の基礎部分だけが残っていて、元々そこにあったはずのお店が、そっくり流されてしまったようでした。
 「(息子夫婦は) まだ、行方不明なのよね」と言われてました。震災から3ヶ月が経ち、まだ見つからないんだけど、どうしても諦めたくなくて、今でも探しているという話でした。
 この日はお忙しい中だったのですが、時間の合間を縫って、わざわざこの場所に足を運んだようです。話を聞くと「今日は、息子夫婦の結婚記念日だから、何か見つけられたらいいなと思ってここに来たのよ」と言われてました。

 

 一通りお店の敷地内を歩かれた後、私たちに一礼して、自転車に乗って帰って行かれました。
 それから1ヶ月後、お店の敷地内に花が添えられていました。
 2ヶ月後、お店の敷地内に張り紙が張られていました。
 3ヶ月後、お店の敷地内に立て看板が立ててありました。
 半年後の12月、お店の敷地内には、まだ立て看板が立っていました。消えかかった文字の上から、マジックで何回も書き直した跡がありました。その脇に、きれいなお花と食べ物が置かれていました。

 6月にお店の前でお母さんに出会って以来、このお母さんに直接会う機会はありません。ですが、今でもお母さんは、頻繁にこの場所を訪れているのだと分かりました。

 

 

「被災地の方々へ送る新年の応援メッセージ 2012」公開中

 あけましておめでとうございます。本年もよろしくお願いいたします。

 

 さっそくですが、Twitter上で募集していました被災地の方々への新年のメッセージを元に、まずは動画メッセージという形で公開されました。

 

 ぜひご覧になってください。

 

 

 被災地の方々へ送る新年の応援メッセージ 2012

津波が来た瞬間と対処法

被災した人たちから、津波が来た時の状況を聞きました。

「津波警報が鳴ったから警戒していたけど、実際は津波が来たようには見えたんじゃなくて、白い霧が近付いて来るように見えたんだよね。だから、“霧だったら大丈夫だ、よかった〜”と思って油断していた。それが目の前まで来た時に、始めて津波だと分かったから驚いたね。」

「津波が来た時は、黒い土が流れてくるように見えたから、何が来たのかよく分からなかったね。音を聞いてみても水が流れて来る音じゃなくて、壊れる音やぶつかる音やいろんな音が混ざり合ってるから、すさまじくうるさい音になっていてよく分からない。だから、目で見ても音を聞いても、一体何が起きて、何が来たのかよく分からなかったよ。」

「津波警報が鳴ったから、てっきり海の方向から津波が来ると思ってた。でも実際は、海とは反対の山の方から先に津波が来たんだよね。だから“えっ!?”と思って、すごく驚いたよな。」

「津波警報が鳴ったから、最初は“ドッカーン”と波が来ると思って、急いで2階へ逃げて身構えてたよ。でも、来るか?来るか?と思ってもなかなか来なかくてね。来たか?と思って外を見てみても、家の隣の道路に静かに水が流れ込んで来たくらいだったから、てっきり大丈夫かなと思っていた。でも、そう思って落ち着いて、一階に下りてみようと思ったら、すでに一階がもう半分以上浸水していた。津波って、こんなに静かに一瞬にしてやって来るんだと思った時に、すごく驚いたよ。」

大部分の人たちに共通しているのは、自分の予測とは違った来方をしたということでした。しかも、同じ市内だったとしても、その時の自分自身がいた地域や、その周囲の環境によって津波の来方が違っていて、まさに予測不能状態だったことが分かります。では、自分の周囲で津波警報が鳴ったらどうすべきか聞くと、このように言われていました。

「まず、“自分は大丈夫だ”とは思わない。どんなに専門知識があって防災グッズの備えがあったとしても、“自分は大丈夫だ”と思わないこと。」

「次に、あせらないこと。地震の後に津波が来るまでは時間がかかる。あせらずに、歩いても大丈夫だから、まっすぐ高台へ向かうこと。」

「あとは、津波警報が鳴りやむまで、絶対に高台から降りないこと。」